2018.06.11 Monday

立派な映画館で観てしまった居心地の悪さは別として、この映画は観てよかった。

『万引き家族』 英語題:Shoplifters

監督・脚本・編集:是枝裕和 音楽:細野晴臣 2018年 120

 

東京ミッドタウン日比谷は、オープンしてまだ2ヶ月と少しで、『万引き家族』を観るために、人で賑わう土曜のこの日に来たのはやはり場違いだったなとは思った。中央に大きな吹き抜けのスペースが有る巨大なショッピングモールは、この映画にはふさわしくなかったかもしれないが、TOHOシネマズ日比谷は大きな劇場の真新しいシートで、夫婦50割だから二人で2200円で映画が観られるという環境は、多少の居心地の悪さはあっても、それでも総じて快適なものだった。

 

映画の公開が、実在の事件と重なって公開が延期になったり、奇妙な「忖度」で公開ができなくなったりということは過去にもあったが、『万引き家族』で描かれた5歳の少女の虐待の痕跡が、まさか見事に、ここ数週間に渡って世間を騒がしている事件と重なり、現実の鏡のように見えるとは思わなかった。子どもは親を選ぶことができないという当たり前の現実は、親が子に最大限の幸せを約束しようと努力する、という既に夢のように空虚な願いを、文字通り鏡のように反映している。子どもの幸せを願わない親はいないと、どこかで信じていることは、現実には無残に打ち砕かれ、映画の中で夢のように再生される。この逆転をどう考えたらいいのか?

 

過去に犯罪を犯し、身を隠している男が、ひとりの少女が「寒そう」にしていることを気の毒に思い、「かわいそうだ」とか「ひもじそうだ」という、手を差し伸べるには十分な動機でその少女を匿う。それを特別なことだと思わない不思議な家族がいる。「返してきたほうがいい」という常識的な反応は、もちろんその通りではあっても、ひもじそうな女の子を見ている女は、既にどこかで「ここにいてもいい」と思っている。血の繋がりよりも、人としての当たり前の感情で「家族」に迎え入れることは、この奇妙な家族にとってはそれほど大きな事件ではなかった。傷ついた小さな子供の腕の傷を心配し、後ろから抱きかかえてあげることが、ごく自然な振る舞いであってほしいと願う。他人である大人に女に、母のような自然な言葉をかけられた子どもは、それを人としての当たり前であると思って欲しい。この貧しくて特別な「家族」に、その自然さを映し出すことが、この映画の課題であったと言ってもいい。

 

突然紛れ込んできた小さな子供は、その年令では当然であるかのように、おねしょをするのだが、ごく普通に叱られ、ごく普通に「ごめんなさいは?」と言わされる。それが特別なことではなかったかのように、貧しい一家は、狭い部屋の布団を仕方ないかのように干しに行く。そして、おねしょの対策を考える。「寝る前に塩を少し舐めるといい」という婆さんの迷信のような助言を真に受けるだけの優しさがここにはある。服がない子供のために、婆さんは縫い物を始める。突然紛れ込んできた子どもは、少し年上の少年と、いくらかの距離と、恥じらいと、戸惑いを保ちながら、兄妹のように居始める。ルールを守ったり、秘密を守ったりしながら、少しづつごく普通の少女になっていく。

 

『万引き家族』を観て思うことは、映画は細部の描写の積み重ねだという当たり前の事実だった。映画に描かれた細部は、それが細かな部分にも執着した描写だということだけで、人を感動させる。かつては地域の再開発で地上げ屋の責めにあったらしい都市部の古い一軒家は、マンションが立ち並ぶ地域に取り残されたかのように、ただの捨て置かれた木造家屋のように描かれる。映画では、かつて地上げの交渉をしていた男の登場でその事がわかる。その家の内部は、誰のものなのかも判らないようなモノが雑然と置かれ、台所らしき場所は、食べ物をつくるというよりは、かろうじて食器を上げ下げしたり洗ったりするような、僅かな水場のように見える。居間とは言っても、5人が入り混じり、そこ以外にどこにけばいいのだ、という雑然とした「場」が中心にあるだけだ。そこに、唐突に子どもが増えるのだ。それぞれがごく僅かな自分の居場所を線引しているような空間は、一定のルールが有るように見える。この光景は、僕には見覚えがある。小学校5年生(1973年頃)の時に父親の転勤で行った奄美大島の友人の家は、8畳くらいのひとまに、家族が8人くらい暮らしていた。その時の自分の家である官舎は、4畳半と6畳が二間の小さな家だったが、その友人の家族の家を見たときの驚きは忘れられない。祖父母と両親と子どもたちが、雑然と同居する小さな空間にも、一定のルールが有るようだった。貧しいのだとか、そういう驚きではなくて、こういう家族がいるのだという素朴な驚きだった。

 

もちろん、家が小さくて、家族が多いということで、『万引き家族』の細部が面白いわけではない。例えば、台所にある冷蔵庫の扉は、飛び散った醤油の跡がこびりついたように汚い。よくもこれだけ飛び散ったなと、幾分か大げさな描写だなと思っていると、信代と女の子が風呂に入るシーンでは、その浴槽の小ささと汚れ具合に驚く。もう何年も掃除などしていないような風呂場は、その「家族」のいち面をきちんと言い当てているし、一方でその細部は、もっと大切なこと、いや、結果的に欠くことのできない重要なことを浮かび上がらせる。汚くしててもいいということではなくて、そこをきれいに掃除をすることを当分の間後回しにしてきたことが、この家族の特徴でもあるからだ。切迫した日々がそうさせたのかもしれないし、今さら部屋の一部を掃除したからといって、何かが変化するわけではない。そうして生きてきた「家族」の風呂場はこれでいいのだという信念の描写が見える。

 

あるいは、際立った細部として印象に残るのは、クリーニング屋をクビになった信代が、治と一緒にそうめんを食べるシーンであり、透けて見える下着姿の信代には、エロティックというよりは生臭いほどの猥褻さを感じずにはいられない。そして突然の夕立と大雨が、鬱陶しく蒸し暑いだけの夕暮れに、唐突に狂気のような衝動を運び込む。信代の透けて見える下着姿が、治を誘うのではなく、夕立によって二人が現実をはみ出していく衝動的で小さな狂気が愛おしい。ちゃぶ台には食べ残したそうめんがこぼれてはみ出していて、その白くて水が滴る生々しさは、この映画のためだけにある細部であって、どんな言葉でも説明のしようがない余韻だけを残している。

 

あるいは、祥太と治とりんが、練習して一緒に盗んだ数本の高級な釣り竿は、売られて換金されることがなく、祥太との再会の場面で使われる。この慎ましい家族の共同作業の成果を、父親であろうとする治が売り払わなかったのはなぜか? リリー・フランキーが演じる治が素晴らしいのは、徹底したカッコ悪さである。もしかすると若い頃はそれなりに粗暴であったかもしれない中年の男は、この映画の時点では徹頭徹尾かっこ悪い。日雇いの仕事も、建設現場ではそろそろ戦力外通知を受けそうな年齢であるし、怪我をして家に戻っても何の補償も得られない。万引きの仕方を子どもたちに教えるとは言っても、そこには素早さや熟練した技があるわけでもなく、普通の万引きが家族連れで行われるといった程度の組織力を見せるだけである。カッコ悪さといえば、信代と久しぶりで交わった夕立の日には、「俺もまだできただろう?」と情けない同意を求める。裸の後ろ姿は、年齢を示すには十分な垂れ方と出方をしているし、家族で行った海水浴場では、今どき、ステテコで海に入る親父はいないだろうという、時代錯誤な見苦しさを見せる。それは、ひとときの道化の姿のようでもあり、幼い子供を喜ばせるには十分な姿だ。だからこそ、信代に誘われたときの生々しい戸惑いが印象に残る。

 

あるいは、祥太が妹をかばうために、わざと万引きで見つかろうとした時に、とっさに掴んだものは数個の玉ねぎが入ったネットだった。オレンジ色のネットに入ったそれは、スーパーで買えば不揃いの玉であれば百数十円からせいぜい二数百円程度の品物だ。入口付近で、安売りされている設定であっても、それが蜜柑やグレープフルーツであってもいいし、じゃがいもや里芋であってもいい。あるいは、少量でも値段が高く、持って逃げるならばもっと軽いものでも良かったはずだ。

なぜ玉ねぎだったのか? 祥太が追いかけてきた店員に捉えらるその時、道路に散らばるのは球形の玉ねぎでなければならなかったからだろう。その円形で安価な庶民的な野菜は、ラストシーンで、団地の通路で一人あそぶ「りん」が、散らばったビー玉を拾い集める仕草で回収されなければならないし、彼女のこの先に起こるかもしれない、何かを示していたはずなのだ。象徴や記号といった暗示のゲームではなくて、現物が想起させる痛々しい何ものかが、確かに確実な細部としてこの映画にはあると思った。

 

この映画が海外で評価されたことは素晴らしいし、何の異論もないのだが、このくらいの映画を、もっと創造できる潜在的な力を、日本の映画は持っているのだと思う。だから、このくらいの映画がアベレージであってほしいと願う。是枝監督のインタビュー記事にもあるように、社会問題や政治的な課題に映画が向かい合っているのかという「問題意識」の有無だと思う。インディペンデントな映画やドキュメンタリーは、痛いほど向かい合っているのだから。

残念ながら、この日の予告編を見ていると、荒唐無稽だとさえ思うキャステイングの劇映画が堂々と広告され、ジャニーズとアイドルの組み合わせは、当分終わりそうにはないのだけれど。

2018.04.24 Tuesday

男はなぜ、馬を放ったのだろうか?

『馬を放つ CENTAUR

監督・脚本・主演:アクタン・アリム・クバト 2017年 キルギス/オランダ/フランス/ドイツ/日本 89

 

「馬を放つ」とは馬を逃がすこと。邦題はとてもわかり易いけれども、中身をそのまま言い当てているような気もして、少し味気ない。原題のCENTAURはケンタウルスだから、ギリシャ神話上の半人半馬の種族の名である。映画のスチールを見るとむしろこの原題のイメージを大切にしている感じだ。

 

村人からケンタウロスと呼ばれる男は、なぜ、馬泥棒をしてまでひとの持ち馬を放つのか? 映画の冒頭で放たれる馬は、レース馬として高価で取引された馬らしい。この地のレースとは何なのだろうか? レースのシーンは現れない。男の親戚はこの馬の持ち主で、レース馬を育てることで富を得ているらしい。夜中に馬を盗んで、その馬で夜の野を走る。そして馬を放つ。男の行為には、何の利益もない。このシーンを観ながら、「ポトラッチ」を思い起こしていた。「ポトラッチ」は象徴交換といい、富を得るのではなく、儀式的に価値を交換する。むしろ積極的に損をすることで、その価値を認め合う。未開の部族などで認められた人間独自の経済活動だ。カール・ポランニーやその紹介者でもある栗本慎一郎の著作で知った。例えば、ある部族で婚礼が成立すると、娘を送り出した一族は「娘がいなくなる」という損失をする。娘を迎えた家族はその損失に見合うように自分の家畜を殺す、といった行為だ。無駄な損失を自らすることでその価値を認めあうという、前近代的な、むしろ野蛮な行為のように思われる。これが実質的な価値交換であれば、家畜は殺されずに娘の両親に贈られる。象徴だから、お互いに勢力を同じにするという、損失した側に合わせる行為だ。これは日本でもあったらしい。例えばこんな話だ。あるとき道でばったりと幼馴染が出会った。ひとりは酒を、もうひとりは素焼きの器を売っている。出会ったことで、酒売りは自分が持っていた酒を飲もうと言い、二人は酒を飲んだ。別れ際に素焼き売りは、「お前は売り物の酒を飲ましてくれたから、自分も売り物の素焼きの器をそれに見合うだけ割る」と言って売り物の器を壊したという。お互いに損をするだけの行為は、何故か微笑ましく、豊かな気持ちにさせる。そんなことを、この映画を観ながら思い出していた。もちろん、男の馬泥棒は犯罪であり、馬の持ち主にとっては巨額な損失だから事件となる。だけど、この馬を放つという行為は、今の金の価値では測れない、長い時間の流れに呼びかけるような豊かさを孕んではいないか? 馬が馬らしくあるように、あるいはヒトと共存(馬にとっては従属かも知れないが)していた頃の馬らしさを取り戻すこと、それができないのであれば、せめて、自由に野を駈ける時間を与えること。それが男の望みだったのではないだろうか?

 

外国の映画を観ると、いつもたくさんのわからないことを突きつけられる。映画が教えてくれるわけではない。だから考える。そして、答えが出ないことに自分の無知を悔やむ。いや、知っていたからといって出てくる答えではないかもしれない。だから、また、考える。その連鎖が面白い。

キルギスのことなど、ほとんど何も知らないことにあらためて気がつく。人々のルーツも、生活も、宗教も言語も、食も。馬と人との生活が、かつては今よりもよほど密接だったのだろうと想像する。さらにもっと昔には、騎馬民族としての誇りある歴史があったのだろう。

この映画の主人公が、自らの血の中に抱いているその末裔としての誇りは、現代のキルギスの地では相容れないのだろう。大工として生計を立てる男は、地味な夫であり、父親であり、時代遅れな血筋をひきついでいる土地の記憶でもある。明らかなモンゴリアンの風貌は、彼の妻とも、親類とも、村人の何人かとも違い、最もその地の男にふさわしい顔つきを持っている。カザフスタンなどの隣接する中央アジアの映画を観ると、登場人物の顔つきの豊かさに驚く。明らかなアジア系と、ヨーロッパ人のような人たちが混在している。かつては国境など無かったこれらの土地では、人は自由に行き来し、土地に執着することも、人種にこだわることもなかったのだろう。宗教も言語(公用語)も、後づけの文化でしか無いのだ。だから、この映画の主人公の男の顔は、その土地の歴史や記憶を継承していることが見ていて分かる。

 

馬をめぐる映画は魅力的だと思う。アイスランドの『馬馬と人間たち』(2013年)を思い出した。この映画もとても美しい映画だった。

2018.04.06 Friday

215分の映画から見えてきたのは、少しも変わらない「ニッポン国」の姿だった。

『ニッポン国 vs 泉南石綿村』 監督:原一男 2017年 215

 

東京新聞によると、2018年4月4日は、安倍晋三総理大臣が新人官僚約750人の前で訓示をした。「国民の信頼を得て負託に応えるべく、高い倫理観の下、細心の心持ちで仕事に臨んでほしい。」と呼びかけ、今年が明治維新から150年であることを踏まえ、当時は若い官僚が近代化の基礎を作り上げたと紹介。「先輩たちに負けないくらいの気概を持って、仕事に取り組んでほしい」と求めたそうだ。『ニッポン国 vs 泉南石綿村』を観た翌日にこの記事を読み、苦い汁が喉の奥から染み出すような感覚を覚えた。安倍総理はよほど明治150年が好きなのか、このタイミングで近代化の礎を持ち出さなくても良さそうなものだけれども、そこまで遡らないと立派な先輩はいないのだろうか? と思ってしまう。いや、「先輩たち」と言えば、つい先日、役人魂を徹底して官邸を守る答弁に終止した偉大なる「先輩たち」が直ぐに目に浮かぶ。絶好のタイミングでの訓示だから「あの姿がみなさんのあがりですよ」と言ってくれればよかったのに。

 

こんなことを書いているのには理由がある。『ニッポン国 vs 泉南石綿村』を観て幾つものシーンが他の映画とも重なったからだ。映画の終盤に厚生労働省に謝罪を求めて訪ねる原告団を迎えたのは、入省から数年だろうと思われる若い職員だった。しかも総務課(おそらく労働基準局)だという。厚労省には「アスベスト問題」に特化した対応部署があるはずだ、なぜ総務課のあなた達なのか?と詰め寄る。その後の対応に現れたのは安全課(おそらく労働基準局安全衛生部安全課)だと名乗る、やはり若手の職員だった。原告団の柚岡一禎は「我々が十数人で来ているのに、何と失礼な対応か!」と怒る。既に最高裁の判決で国は敗訴している。原告団は厚労大臣からの直接の謝罪を求めていた。数日にわたる直訴の場には、上司と思われる担当者は現れるものの、この件の直接の担当者も、当時の塩崎大臣も姿を見せない。同じ国賠訴訟の一部は差し戻しの対象だという理由からだった。厚労省は誰の方を向いて仕事をしているのか? つい最近、財務省に対して多くの国民が感じた疑問は、ここにも横たわっている。もちろん、この映画だけに現れたことではない。すぐに思い当たるのは三上智恵監督の一連の沖縄映画である。高江の住民にまともに向かい合わず、口ごもった対応に終止する沖縄防衛局の職員たち。「オスプレイはここには来ない」と言い続けてごまかしが効かなくなった防衛省の担当者。あるいは、水俣病の映画に出てくる厚生省(当時)の門前でのやりとりは、この国の省庁の体質が何ひとつ変わっていないことを思い起こさせる。

 

水俣病の映画と言えば、患者たちのリーダーだった川本輝夫とこの映画の柚岡一禎を重ねた人もいたかもしれない。国が抗告しないように首相に直訴すると言い出し「建白書」を準備して手渡そうとする姿や、厚労省に強引に入ろうとするその無謀な怒りは、かつてチッソに直訴し、島田社長の目の前であぐらをかいて詰め寄る川本輝夫の姿に重なる。しかし、原一男監督が言うようにこの一連の裁判には、水俣病闘争のような爆発的な怒りは、その発露の場所もぶつける当事者もいない。状況を詳しく知っているのかどうかも怪しく、上司から言いつけられた若い職員が、誰かに見せるかどうかもわからないメモを取り続けるだけだ。まるで花見の場所取りのように、陳情団への対応は、若い職員の通過儀礼だと決まっているかのような無意味な対応だった。映画を観ながら、「もしかするとこうした対応は、水俣病の教訓から学んだ所作なのかもしれない」などと考えていた。裁判闘争は手続きの連続であり、怒りを直接ぶつけても、それらが反映される見込みは少ない。怒る側は常に同じメンバーで、対応する側はすぐに担当者も変わる。水俣と同じように、運動で要する時間は病んだ被害者を次々に死なせていく。結審を見ずに死んでいった泉南の被害者たちは、映画の最後に遺影として現れる。21人。映画の撮影は8年に及んでいるというから、最後に数えられた死者たちは、映画の中ではそれぞれの生きた証言をしている。映画が静止するたびにその人が亡くなった日付が出てくる。こうした裁判の手続きは、原告が死ぬのを待っているようにゆっくりと進んでいく、といえば言い過ぎだろうか?

 

東日本の震災と原発事故から7年が過ぎた。仮設住宅の住人や自主避難をした人たちは、住宅費の打ち切りや理不尽な退去を強いられている。補償を巡っては水俣と同じことが起こるだろうと、原田正純医師は心配しながら他界した。水俣病では認定と補償をめぐって、医学は患者の側ではなく、国の側に立って被害者たちを線引した。アスベスト訴訟でも、家族や近隣者は同じような症状であっても線引され、補償の対象から外された。訴えを起こしている人たちに共通することは、国策に等しいエネルギー政策や、高度経済成長を牽引した産業の犠牲者たちだということだ。

215分の映画から見えてきたのは、「ニッポン国」の姿だった。戦後から少しも変わらずに、脈々と代替わりを繰り返しながら「ニッポン国」という巨大な何かを支え続ける人たちと、その成長を最底辺で、目に見える形で支えながら、時期が来れば棄民のように虐げられた人たちだった。

2018.03.17 Saturday

『願いと揺らぎ』を観たら、何かを知った気になっていた自分は何なのか、と問うしか無い。

『願いと揺らぎ』

監督・撮影・編集:我妻和樹 2017年 147

 

この映画が『波伝谷に生きる人々』と結びついたのは、映画が始まって少ししてからだった。じつは、何も予備知識を入れないで観に出かけたので、山形で上映されていた震災関連の映画くらいの事しか知らないでいたのだ。『波伝谷に生きる人々』を見逃していたために、それが2005年からこの地域との関係を持ち、2008年から継続的に撮影されている映画だということも知らなかった。そしてまた、多くのことを知った気になってしまった。

 

1時間ほど過ぎた頃から不思議な既視感を覚えていた。何処かで観たような感覚その感覚は、映画が厄年の男性の厄払いのために集まった、この地域では恒例らしい酒席を映し出した時に、ふとある映画と重なった。小川紳介の『三里塚・辺田部落』(1973年 146分)だった。帰宅してから『願いと揺らぎ』のHPをみていたら、「コメント」として本田孝義さんが、『三里塚・辺田部落』を取り上げて書いていたのには驚いた。彼は“揺らぎ”という言葉に反応し、小川紳介の映画が「村が揺れる」と評されたはずだといい、モノクロの画面もそれを想起させた、という。後から調べると1分しか違わない二つの映画の上映時間も、偶然の類似ではないのではないかという気にさせる。僕が辺田部落を思い起こしたのは、あの座敷で繰り返される一連の「思いのぶつけ合い」だった。カラオケが始まった座敷で、極端に接近したカメラはむしろ声を録るためにそうしたのかもしれないが、「何もこんなうるさい場所で話を聞かなくても」と思いながらも、成り行きでそうなってしまった状況に身を任せるしかない作者は、映画の撮影者というよりは明らかな当事者だった。実際にこの酒席のシーンはとても冗長で、どこまでが必要なコメントなのかは、判じかねる部分であった。それでも、酒の力も借りて発せられる何人かの言葉を大切にしようと思った作者は、もはやこのシーンが長すぎるとは思っていなかったのだろう。まるで必要な儀式でもあるかのように、丁寧に(というよりは、可能な限りの一部始終を)記録している。『三里塚・辺田部落』との類似を指摘することは、この映画にとってはたぶん意味が無いのだろうが、辺田部落の集会所は、極度の緊張感を持った沈黙が時間を支配している。行き詰まるような空気は、抵抗運動によって逮捕された若者たちを集落全体で心配しながら、先の見えない運動への閉塞感と疲弊が伝わってきた。

 

当事者と言えば、再開したワカメ漁でも思い当たる。残った数隻の船を使い、漁業者全体で役割分担をしながら進めていく作業は、その段取りや作業スピードなどから相互の不満が募っていく。ある日の作業の終わりに、翌日の段取りを説明するシーンは、見ているだけで息苦しい。作業をふた班に分けるのだと説明をするリーダーは、どうやってふた班に分けたらいいのかさえも言い淀んでいる。不機嫌そうにタバコを咥えている者がいれば、言われればそうするとばかりに何も言わない者もいる。些細なことのように思われることさえ、決まるまでの重々しい空気がそこにはある。そんな状況を見つめる撮影者は何を考えていたんだろうと、ふと思う。鬱陶しい空気は、この映画の主題でもある「お獅子さま」の段取りでも何度も現れる。若い者が中心となって、この地域の慎ましい祭り事を再開したいという。それは「講」(という呼び名だっただろうか?)の長が中心となって決めればいいと、年長者はいう。確かに「講」という互助会に似た制度は、他の地域でもみられる。小さな漁村では、みな同じように漁業によって収益を得ているから、何か不測のことがあれば相互に助け合う。極小の保険制度のようなものだ。その長は、今は代替わりをしようとしているが、集落の決め事はその長を中心とした集まりで決められる。こうした決め事の制度は、小さな集落を守るための良さでもあり、閉鎖的なシステムと言われてもおかしくはない。それでも、「お獅子さま」は、集落の総意がなければ少しも進まないと、新しい長は考えている。年長者は相談されることを待っているようにも見えるし、遠巻きに見ているだけのようでもある。これもまた、地域独自の腹の探り合いとでも言えそうな状況だ。鬱陶しく、息苦しく、また愛おしい。「お獅子さま」がこの集落の人たちのために、この集落の人達が営む慎ましい神事であることは、この映画の核心でもある。村おこしや、観光客のためでもない小さな神事は、集落存続の要の儀式であり、そのことだけが、かれらを繋ぎ止めているのかもしれないとさえ思う。

 

この映画のもうひとつの魅力は、作者の我妻和樹が、元々は民俗学の興味からこの土地の「お獅子さま」やそれを継承する人たちを取材していたということかもしれない。映画を作ると意気込んでこの地を選んだわけだはなかったのだ。「映像人類学」といえば、学術的な調査の延長で写真や映画での記録を始めた学者の仕事を指すのが通例なのだが、実は、個人映画や市民映像にもその原点をみることができる。日本では渋沢敬三やその仲間による「アチックミューゼアム」のフィルムを確認することが出来る。もちろん、明治の日本で初めて日本人を撮影した、コンスタン・ジレルやガブリエル・ヴェールも日本の風土や民俗を記録している。重要なことは、撮影者と対象との関係にどの程度意識的であったかという点である。そうしたアマチュア映画と民俗学的資料映画との結節点として、ある種の「憑依関係」に最も意識的であったのは、ジャン・ルーシュであったと記されている(『映像人類学』箭内匡 「序章 人類学から映像—人類学へ P14」。「人類学者がカメラになる」という現象をある種の憑依であるという。そこではおそらく、長期の滞在や調査が可能にした独自の「共犯関係」が前提となるはずだ。長期の取材と対象者との共犯関係と言えば、自ずと小川紳介や土本典昭が浮かんでくる。彼らのカメラマンも、ある種の憑依を体験していたのかもしれない。我妻和樹の撮影にも、そうした憑依や共犯関係をみることは難しくない。むしろそれこそがこの映画の魅力のひとつなのだ。長期の取材が可能にしたとか、プロにはできない密着の態度などと中途半端に褒めることはやめにしよう。この映画の撮影者は明らかにこの土地の人々や風土に取り憑かれているのだ。

 

震災と津波から7年が経過しても、2011年3月11日から2012年への1年間は、その「7年」の中に組み込むには大きすぎる1年間だったのだと思う。もちろんそれは、2年目以降には何かがいい方向に動き出し、年を追うごとに苦しみが緩和されていったという意味ではない。むしろ、人口の流出や帰還の困難が明らかになり、土地を放棄する絶望を選択肢として突きつけられた地域では、ここ1、2年に大きな決断があったはずだ。数年後には元の暮らしができるという僅かな希望さえも奪われた人々は、今でも避難を強いられている。

 

南三陸町波伝谷地区が、日本の沿岸部であればそれほど珍しくはない、慎ましい集落であったことは、映画を観れば理解できる。そして東北の広域で、こうした被害が発生したことも知っている。そう、知っている、はずだと思っていた。われわれはいったい何を知っていたのだろうか? と映画を観ながら問うていた。3.11以降に作られた多くの記録映画を観ていた。そこで語られる事実や住民の困難も、たち行かなくなった農業も、水産も、畜産も、再興までの道のりの長さを想像させた。どの程度の被害があったのかも、幾つもの数字を見ながら知っていたのだ。実際に自分がその場所に立って観たことがあるのは、2012年8月の宮城県石巻市だった。自分の目で観た風景は、被害の総量からすれば僅かなものだが、計り知るには十分な姿だった。だからまた、知った気になっていた。

 

南三陸町波伝谷地区の、震災の前と後とがこの映画には記録されている。地域に入る動機が「お獅子さま」であったとしても、地域の前と後の貴重な記録であろう。震災後に知ろうと思って身構えていたことよりも、はからずも知ることになった責任の重さを、もしかすると作者は感じていたのだろうか? 取り憑かれるようにカメラを回している人を見たときに、映像を通じて知っていることなど、大したことはないのだと、言い返されている気がした。

2017.12.10 Sunday

作者と会い話を聞くことで、描かれた事象が少しずつ連鎖して繋がり広がっていく

 第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式(2017.12.9)に参加しました。2013年から映像部門の作品選出のお手伝いをしています。毎回、式の冒頭で代表の岩垂弘さんがお話されます。「この会が授賞式でなく贈呈式なのは、優れた仕事をされた皆さんに、どうか賞をもらっていただきたいからです」と。活字でも映像でもテレビでも、ジャーナリズムの危うさが伝えられる今、優れた仕事に敬意を表し、続けていただきたいという願いが込められている賞です。

 活字部門の作者にもお会い出来る機会なのですが、その時には著作や記事を読んでいないので、ちょっと残念です。会場においてある書籍や新聞のコピーを見ながら、購入できるものは購入し後日読むようにしています。その中でシンガーソングライターの清水まなぶさんの活動はとても興味深いと思いました。今回の対象作品は『追いかけた77の記憶 信州全市町村戦争体験聞き取りの旅』(信濃毎日新聞社)です。清水さんは、自身の祖父の戦争体験を聞き、その話にメロディーを付けて歌うということを始めたそうです。それが今回の著作のきっかけであったと話していました。学校を巡って講演会や歌を歌う活動も続けているそうです。何が興味深いかというと、授業で戦争や沖縄の話をしたり、映像を観せていると二通りの意見が出てきます。「勉強になった、知らないことがわかった」。もうひとつは「見るのが辛い」「戦争を知ることの大切さはわかるけど、伝え方があざとくて押し付けがましい」というものです。戦争をストレートに伝えることに拒否感を示す理由も解ります。しかし、そのことが曲がったナショナリズムやヘイトにつながっていかないか? なんとなく現状維持で現政権支持になっていないか? こうした懸念は常にあります。戦争体験を聞きそれを自分というフィルターを通して歌にするという活動は、古いスタイルかもしれないけれども、入り口のハードルを下げてくれると思いました。

 また、広島市立元町高等学校創造表現コース・美術部の皆さんの「被爆者の体験を絵で再現する活動」は10年間の作品集が会場にありました。この活動も若い人に語り継ぐひとつの切り口だと思います。学校の活動として戦争体験を聞き、研究発表のような形でまとめるという話はよく聞きますが、その話を画で再現するとなると、作品化する際の解釈や表現が必要です。体験談の細部と向かい合う時間も労力もより多く費やすことになったでしょう。担当の先生とお話して、一般には販売していないという作品集を送っていただけることになりました。「南洋の雪」(朝日新聞高知版連載)の西村奈緒美さんとは、水爆実験で被ばくしたマグロ漁船の漁師が労災申請をしているその後のお話を聞きました。この連載は映画『放射線を浴びたX年後』『放射線を浴びたX年後2』や南海放送での番組で扱われた、いわば「隠された被ばく漁船」の漁師たちに、別の角度からプローチされた話だそうです。番組では労災申請をし始めるところまでが描かれていますが、現在でもその活動は継続しているということでした。西村さんもお若い記者です。現在は東京に戻られているそうですが、この件の取材は続けてほしいと願っています。

 

 今回は映像部門からは、大:『抗い —記録作家林えいだいー』督:西真司:『被ばく牛と生きる』督:松原 保の2作品が出されました。いずれも、今年を象する大切な作品だと思います。

 僕が今年の字一字をぶとすれば、まさに「抗」でしょうか。多くの人たちが々な問題に向き合い、理不尽な仕打ちに「抗い」、しかしその抗いは、油断をすれば忘れられ、また、大きな力によって踏みにじられようとしています。この映画に記録された事は、絶対に忘れ去られてはならないものです。

 『抗い —記録作家林えいだいー』の製作はRKB毎日放送です。ここ数年、各地のテレビ局の取材から劇場公開される映画が増えていますが、僕の知る限り、九州発は長崎放送の『五島のトラさん』に次ぐ2作目だと思います。もっと、この動きが加速してほしいし、テレビ番組だけではなく、九州から優れたドキュメンタリー映画を発信してほしいと思います。

 『抗い』は、筑豊地区や福岡県だけの問題をではありません。戦争と侵略に翻弄された朝鮮人労働者や軍人、その妻や家族、多くの負の歴史を語ります。目を背けてはならないと思います。必ず、同じようなことを考え、ヒトを踏みにじろうとする人間が現れますから。それは個人ではなくて、組織であり、企業であり、資本家であり、国を動かす政治家です。その大きな力に抗い続けた林えいだいさんが、2017年9月1日に肺がんのため亡くなられました。北九州の公害問題をはじめ、朝鮮人の強制連行と強制労働の問題に最後まで向き合い、重要な著作を多く残された記録作家が、またひとり鬼籍に入られました。日本の歴史の暗部を、けっして風化させてはならないという強い思いを、今、引き継ぐ時だと思います。

 

 『被ばく牛と生きる』も、福島で被ばく牛たちを「生かす」と決めた畜産農家の抗いであり、戦いの記録です。もちろん、牛だけでなく、猿やイノシシやアライグマやハクビシンや、鳥や魚も被ばくしましたが、この映画では牛に絞り込んで、原発事故からの長い戦いを記録しています。他の映像でも幾度も紹介された「希望の牧場」の吉沢さんの絶対に諦めない姿勢が長期取材から伝わってきます。長期化する問題に資金的にも体力的にも苦しい畜産農家の人たちは、「生かす」ことからの離脱もやむを得ないと思います。そうした牧場からも可能な限り牛を引き取り、野良となった牛も保護して生かす。本来は食われ、乳を搾られるはずの牛たちからは、食うことも乳を絞ることも、皮を取ることも出来ない。繁殖も許されず去勢され、ただ生きることによってその生体を、研究の検体にしているのです。事故がなくても食うために出荷された運命だから、殺処分に同意して補償金をもらえばいいという意見もあります。しかし、牛を育てて人たちは、それは違うのだという。無意味に殺すことにはどうしても同意できないという気持ちは、映画を観る人には解らないかもしれません。それでも、その思いを、身銭を切って貫くことくらいは許されてもいいのではないかと思います。

 

 劇場公開された他の作品にもそれぞれの厳しい「抗い」が見られました。『標的の島 風かたか』(監督:三上智恵)は、今、この時も続いている沖縄の戦いを記録し続けています。「風かたか」が防波堤であることの二重の意味(米軍の戦略的防波堤と米軍に対する住民がつくる防波堤)が痛みを伴って伝わってきます。『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(監督:佐古忠彦)は、現在の沖縄の怒りを、かつて沖縄の声を代弁したリーダーを描くことで再認識させてくれました。沖縄が置かれた現在の状況は、これまで、「米軍の事故や暴行に抗議して、何回県民大会やっても、何も変わらない」「どうせ、日本政府が決めた通りなってしまう」という絶望的な諦念の意識から、「もう、我慢の限界を超えた」という大きな怒りのエネルギーに変わっているように思われます。それでも、相変わらずの無関心を装う本土の、同じ日本国民に対して、この映画は一つの道筋を示しているようのも思われます。亀治郎のようなリーダーが必要だ、と。『夜間もやってる保育園』(監督:大宮浩一)も、まさに現在の政治的な課題を、保育する側と預ける側の共同作業の姿によって浮き彫りにしていました。

 今年も8月6日前後には原爆をめぐり、終戦の前後には戦争の記録や記憶をめぐるテレビ番組が放送されました。例えば『原爆が奪った女子学生315人の青春 〜アメリカ「極秘文書」に隠された真実〜』(テレビ朝日)では、アメリカの報告書『日本における原爆の医学的影響』から「極秘文書」の巻を発見し、広島にある安田高等女学校の詳細な死傷者報告が、構造物と死傷者数の分析に使われていたことを暴きました。学徒動員による工場の配員を把握していた学校に報告された死傷者の数は、医学的な問題としてではなく、次の戦略に役立てられていたのです。機密文書や戦時の日誌などを詳細に掘り起こし、新たな事実を報じた番組もありました。これらの番組の制作者たちも、核問題や戦争を何度も問い直している人たちです。原爆を扱った番組は、広島や長崎でも年々制作する環境が厳しくなっていると聞きました。視聴率が悪くなっているそうです。それでも、新たな事実と向かい合い、伝えようとしていた制作者に敬意を評します。

 

2017.11.30 Thursday

誰もがドキュメンタリーを撮れるようになった今、『モアナ』は、「ドキュメンタリー映画」の自由さを予見していたのかもしれない、と思う。

『モアナ』サウンド版 (*写真は東京フィルメックスのツイッターにも掲載されているが、カラー映画ではない)

監督:ロバート・フラハティ/フランシス・H・フラハティ/モニカ・フラハティ

1926年/1980年/2014年 アメリカ 98分

 

 1926年に公開され、1980年には娘のモニカによってサウンド版が制作されたというこの映画『モアナ』は、さらに2014年に2Kデジタル版として再度公開された。今回はグループ現代によって配給され、2018年9月に岩波ホールで公開される。サウンド版と書かれていたので、僕は音楽がついているのかと勘違いしていた。そのサウンドはモニカによって録音された、当時の状況の再現音であると言っていい。それにしても、ドキュメンタリーの古典がこういう形で何度も蘇るのは楽しく嬉しい。

 フラハティの映画は『極北の怪異(ナヌーク)』(1922年)も『アラン』(1934年)は、DVD化もされていて、安価で手にはいるのだが、その他の作品は観たことがなかった。『モアナ』もドキュメンタリー関係の書籍には必ず登場する作品だ。

 

 「ファクチュアル(factual)映画」という見慣れない用語が、『ノンフィクション映像史』(リチャード・メラン・バーサム著 1971年 日本語版1984年)に出てくる。第6章「ロバート・フラハティの人道主義的な視点」の冒頭だ。「ノンフィクション」と「ファクチュアル」と「ドキュメンタリー」という用語は、この章だけでなく、何度も交差し、行き来する。定義というのは難しい。この章でも繰り返されるのは、『モアナ』がドキュメンタリーと評された最初の映画であるという記述である。

 

「ジョン・グリアスンは、フラハティの『モアナ』(1926年)に言及してドキュメンタリーという用語を初めて使ったが、我々が知っているドキュメンタリー映画、すなわち社会政治的教訓映画の創始者としてフラハティのことを考えるのは、誤解を生じるであろう。」

 

 「ドキュメンタリー映画、すなわち、」のあとの説明がすごい。「社会政治的教訓映画」だ。かなり教義の解釈だといえるのだが、そのかわりに「ファクチュアル」という言葉をフラハティーの映画に冠したようだ。つまり、彼の映画は他のドキュメンタリー映画のように政治的な目的や意思を持っているのではなく、人道主義的だ、と。だから、「ファクチュアル」という言葉は、フラハティの映画の自由さへの賛辞とも言える。

 

 「ロバート・フラハティの人道主義的な視点」の項を読むと、リチャード・メラン・バーサムがとてもユニークな評し方をしていることがわかる。まずは、冒険者であったフラハティの撮影技術の「下手さ」を幾度も指摘している。例えばこんな風に。「この映画は何よりも旅行記に近い牧歌的なものであり、その土地の特色や日常生活のいろいろな事実への想像力を欠いた注目の仕方は、『ナヌーク』であれほど力強くテーマを打ち出した、人間の強さとふるまいへの洞察力を全く欠落させている。カメラを持った人類学者として、学者のあらゆる欠点を露呈していた。」(p140)モアナが成人の儀式として入れ墨を入れるシーンが、アップの連続であることが相当に気に入らなかったらしい。しかし、続けてこう評している。「一方で彼は依然として芸術家であった。彼はあることをくどくどと論じてから、比べようのない美しさ、明快さ、簡潔さを持つ短いショットないしはエピソードで映画を生きたものにしている。」(p140)

 

 人道主義者であるという指摘の背景には、フラハティがまずは冒険者であり、その土地や人々を長期に渡って観察し、フィルムに記録し、結果的にそれらを詩的に再現することを試みている点で、映画産業の商業的な束縛から自由であったことが通底している。上記のような指摘は『ナヌーク』にも向けられ、撮影技術の未熟さを具体的に指摘しながら、それでも「私たちはお互いに、その生き様に共感を示し合う限り、ナヌークとフラハティの無邪気で、純粋で、偽りのない生き方にも共感しなければならない。彼がわたしたちの人生に関わるように、私たちは作品を通じて彼の人生に関わっていくが、それによって私たちはもっと心豊かになり、その経験を忘れはしないだろう。」(p138)という評価は、現在のドキュメンタリー映画を評する際の最大の賛辞であるように聞こえる。描かれたものをじっと見つめ、映し出された者と時間を共有し、その仕草に共感し、自らの体験とも共鳴する。そういう時間は何よりも、ドキュメンタリー映画の魅力であり、情報を超えた「映画」に固有の「体験」であると言える。

 

 「撮影は下手だが、この上なく映画として美しい」と簡潔に言いきればいい。

 誰もが固有のドキュメンタリー映画を撮影することができ、それをもしかすると、特別な映画体験に構成しうる可能がある現在においては、フラハティが示した未熟さが、現在性を帯びて蘇ってくるようだ。

2017.11.21 Tuesday

リュミエールの『塀(壁)の取り壊し』は、どのようにして逆転再生して見せたのだろうか?

 

 

10月31日に東京都写真美術館ホールで公開された『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』を観て、この漠然とした疑問が再燃してしまった。

 既に映画史の専門家の間では解決済みの問題かもしれないが、自分で調べてみるとやっぱり面白かった。

 

 『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』(2016年 90分 監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション:ティエリー・フレモー 製作:リュミエール研究所)は、とてもためになる映画だった。講義資料として何度も観てきた幾つかの映画が、これまで観たことがなかった初期映画と一緒に鮮やかな画面でそこに現れた。この映画では、4Kデジタルによって復元された150本うち108本を観ることができた。(カタログには、リュミエール社によって1895年から1905年に制作された映画は1422本と記されている)。

 学生の頃は、リュミエール以降の何本かの映画は学校のライブラリーにあったフィルムで見ることができたものの、多くは映画史の資料文献でスチルカットを観ることしかできなかった。

映画誕生100年を迎えた1995年には、フランス国営テレビが毎日1本のリュミエール映画を放映し、365本を収めたDVDセットが発売されそうだ。また、アンドレ・S・ラバルトの『リュミエール』(1995年 フランス 52分)、ハルン・ファロッキの『労働者は工場を去っていく』(1995年 ドイツ 36分)など、初期映画についての研究・記録映画も公開され、チャールズ・マッサーの『Before the Nickel Odeon』(1982年 アメリカ 60分)もその後にDVDがリリースされた。

 

 リュミエールの初期映画はThe Movies BeginのVol.2 The European Pioneersというタイトルの巻でVHSビデオとしても発売され、その後にDVD化された。さらにエジソンやバイオグラフ社、ゴーモン社といった映画史の教科書で僅か数枚のカットでみていた映画が、DVD数巻のセットでリリースされている。

 

 大学や専門学校で「映像概論」や「映画論」を担当するようになってからは、映画前史から初期映画を3〜4回の配分で説明してきた。その時はもっぱらこのようなDVDを活用していた。何しろ、すぐにそれを見せることができるのでとても重宝していた。

リュミエールについては、1895年以降の数年に公開された映画と、その後の展開として、日本にやってきたカメラマン、コンスタン・ジレルやガブリエル・ヴェールの話をし、『映像の世紀』(第11回の最終回)や『夢のシネマ 東京の夢』(演出:吉田喜重 TOKYO MXTV)を、参考資料として観ていた。

 

 5〜6年ほど前に、たまたま同じ曜日に講義に来られていた八木先生お願いして、八木先生が中心となって復元した「シネマトグラフ」と「キネトスコープ」をゼミの学生と一緒に見せてもらったことがある。自分の授業で初期映画の話をしているタイミングだった。それらの復元されたレプリカが映画学科にあることは知っていたが、正直に告白すれば、その時まではそれほど興味を持っていなかった。これもたまたま、八木先生が午前中の授業で「シネマトグラフ」を学生に見せていたという。「今から見るか?」と気軽に応じてくれた。映画学科の1階にあるスタジオの中に設置された「シネマトグラフ」を触らせてもらい、サンプルとして復元された当時のフィルム(「工場の出口」)は、一齣に一組2穴のパーフォレーションが付けられていたのを覚えている。映画学科の技術員の棒さんは、学生時代からお世話になっている人だ。棒さんの説明で映写もさせてもらいクランクを回したのだが、その時は逆回転させてみようなどとは思わず、学生と一緒に興奮していた。

 その後、八木先生とは、何度か休み時間に話をしていて、『塀(壁)の取り壊し』のことも訊いてみた。すぐに構造を確認すればよかったのだが、短い休み時間だったので、それをしなかったことが、その後のモヤモヤを引きずることになる。

 授業のたびに観ていた『塀(壁)の取り壊し』は、そのナレーションを聴きながら、いつもモヤモヤとした疑問は消えず、数年前からは「日本大学芸術学部映画学科の八木先生によれば、シネマトグラフを映写後にそのまま巻き戻すのは構造的に無理があったのではないか、という話もあります。」という曖昧な説明を加えていた。

 先日、4年生のゼミ生が遅れてくるという連絡があって、その時間に棒さんのいる機材室に行き、質問をしてみた。「シネマトグラフは、簡単に逆回転させることが出来たのですか?」「当時のランプは、簡単に点けたり消したり出来たのでしょうか?」

「う〜ん、ちょっと見てみるか?」と、飲もうとしたコーヒーカップを置いて機材室から「シネマトグラフ」を持ってきてくれた。ありがとうごいました。

 そもそも、この疑問がでてきたのは、The Movies Begin Vol.2 The European Pioneersに収められているDemolition of a Wall  1895(『塀の取り壊し』)に次のようなナレーションが付いていたからだ。「リミエールのカメラマンがこのフィルムを見せている時に、プロジェクターが不調で停止して、フィルムを巻き戻した。」

先日観た映画『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』では次のようなナレーションが付けられていた。

「この作品はー上映会での偶然から別の意味で有名になった フィルムを巻き戻す際はランプを消すのが原則 

その時の映写技師は灯けたまま巻き戻したのだ 投影された映像に観客たちはあ然とした

ホコリが収まるとー壁が破壊されるどころか再建されたのである

当時の観客の驚きようは容易に想像できる 翌日上映会に押しかけた工場の工員たちが叫んだ

“社長は魔法使いだ”と 」

そして、『世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895−1897』 ジョルジュ・サドゥール著では、p98写真のキャプションとp111 上段で次のような説明がされている。

「『塀の取り壊し』。右のチョッキにワイシャツ姿がオーギュスト・リュミエール。このフィルムは1896年1月から、逆回転で映写され、最初のトリック映画となった。」

「〜崩壊した塀の落下で舞い上がる砂埃は、またフィルムを逆回転して砂埃の只中で突然建てられる壁面の一部を見せるように気を配らなかったならば、観客の注意を充分に惹きつけることはなかったに違いない。〜」

 

 やはり太字にした箇所が気になった。まずは「偶然に」という説明と「映写技師はランプを灯けたまま巻き戻した」という説明だ。この説明によれば、上映が終わるとランプを消して巻き戻すのが普通だったということになる。しかもそれを観客が観るためには、フィルムを一旦外すのではなく、パーフォレーションをクローピンが掻き落とすことができる状態で、プレッシャープレートも外さないで巻き戻したことになる。それは本当に出来たのだろうか?

 

「シネマトグラフ」映写時のセッティングは図のようになっていて、映写したフィルムは下方に垂れ流される。

  (カラー写真は映画学科の地下スタジオ)

左上部の小さな箱がレンズを映写ように取り替えたシネマトグラフで、その下の扉がついている部分にフィルムが貯まる。フィルムは二連のハンガーに掛けられていた。一度に撮影できたのは17〜18mなので1巻は約50フィートになる。図のハンガーは50フィートほどのフィルムが2巻一度に掛けられるようになっている。後年、改良されて大きなリールが掛かるようになるとしても、この復元されたこのハンガーでは、大きなリールは掛からない。従って、1本ずつか、繋げたとしても2本分くらいのの幅しかない。

 

「ランプは簡単に点けたり消したり出来たのですか?」と尋ねてみたが、それは難しいことではなかったそうだ。そうなると構造上それは出来たかということになるが、大きな問題がひとつある。図のように映写するためにはクランを映写時のポジションに付け替えなければならない。その軸に斜めの切れ込みがある。この軸にクランクを付けて逆に回そうとすると、クランクが外れるようになっている。無理に回そうとすれば逆に回せるのだが、素直にまわすと間違いなく外側に逃げていく。この切れ目は、最初期のシネマトグラフにもあったのだろうか? あるいは逆回転をしないように改良した時につけられたのだろうか? 残念ながら八木先生が復元したときの設計図が、最初期のものか、その後のモデルかはわからない。

 

そしてもう一つの問題は、仮にクランクを逆に回すことが出来たとしても、フィルムをカメラに装着したまま巻き戻すという行為は効率が悪かったのではないか? という疑問が残ることだ。効率だけではなく、2本のクローピンをパーフォレーションに差し込んで巻き上げると、フィルムやパーフォレーションに負荷がかかって損傷しやすくなるという点だ。構造上は、クランクを逆回転させれば、映写時と同じようにクローピンがパーフォレーションに入って、上に持ち上げることは出来たようだ。しかし映写時は下方に垂れ流しなのでそれほどでもないが、垂れ流されたフィルムは絡まっているかもしれないし、上方に巻き取りながら映写するのはリスクが大きい。しかも、巻き上げられたところで、上部にあるの単なるハンガーなので、いちいちそれを手で巻いていかなければならなかったはずだ。そんな手間の掛かることをしたのだろうか?

 フィルムは後年、映写時の1巻の長さも長くなりリールが使われるようになる。映写が終わるとリールを映写機から外して、リワインダーで巻き戻す。リワインダーは一番シンプルなものが、1対のハンドル付きの軸で、テーブルなどに固定して巻き戻す。電動モーターを使うものや、数巻を同時に巻き戻すことができる大型のリアインダーもある。映写機を使って巻き戻す場合は、フィルムを映写時の位置から外し、クローピンやプレッシャープレートを通らないように、巻取り側のリールに繋いでモーターで逆回転させて巻き取る。逆回転させるよりも早いし、フィルムを傷つけないようにするためだ。

そうなるとリワインダーのような2本の軸や巻取り用のリールを作るほうが技術的には簡単だったのではないか?

  

そしてもう一つの疑問は「〜このフィルムは1896年1月から、逆回転で映写され、最初のトリック映画となった。」という説明だ。リミエールの映画が最初に公開されたのは1895年12月28日である。そのひと月後からは「逆回転で映写された」ということは、映写のたびに逆回転でも見せていたということだろう。そうなると最初期のシネマトグラフに、クランクをはめる軸の斜めの切れ込みがあったらとても不自由だったのではないか? 無かったとすれば、毎回フィルムを傷つけるかもしれない心配をしながら、逆転で映写したのだろうか? もしも、意図的に映写後のフィルムをTOPとENDを逆にしてTOP側から巻いて映写したらどうなるか? もちろん映写はできるが、これだと天地が逆さまになってしまう。

やはり謎は解けない。

 もうひとつ、『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』のプログラムでは『壁の取り壊し』1897と記されている。1897年に撮影された映画を1896年1月に映写することは不可能だ。別バージョンも作られたかもしれないが、今、見ることができる『壁の取り壊し』はすべてこの同じバージョンのはずだ。『世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895−1897』には「『塀の取り壊し』は、グランカフェの最初のプログラムには入っていなかった可能性がある」(p97注釈)と記されている。

 この映画はいつ撮影されたのだろう? そしてどうやって逆回転で映写していたのだろう?

 答えは出ているのかもしれないが、こうして自分で考えるのは、とても楽しかった。僕はまだ、その答えを知らない。

 

2017.09.19 Tuesday

沖縄の現代史を、まずは「面白い」から始めてもいい。カメジローは面白いのだ。

『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』
監督:佐古忠彦 撮影:福田安美 配給:彩プロ 著作・製作 TBSテレビ 2017年 107分

 

 

 沖縄現代史の複雑さを改めて知る。「面白い」から始めてもいい。まずは知ること。

 観終わった後には「痛快なカメジローの人物像」が何度も反復される気がした。佐古監督が「週刊金曜日(2017.8.25)」で言うように、現在のオール沖縄の熱気は、この映画で描かれる亀治郎の演説風景に近いかもしれない。「亀次郎さんが言っていたことの一つが『小異を捨てずに大同につく』でした(笑)。みんな考えは違っていても、ここぞという時には一つになろうぜ、と。まさに今が、そうなんだと思います。つまり決して『瀬長亀次郎=翁長雄志』ではないんですが、3年前の知事選(2014年11月)で、沖縄保革の構図が崩れた。その前の仲井眞弘多さんが13年12月に辺野古移設に向けた埋め立てを承認し、市民に怒りがあふれ、それが翌年秋の県知事選挙へつながっていった。このときの熱気あふれる『空気』を、私は現場で直接感じていました。」

 沖縄が置かれた現在の状況は、これまで、「米軍の事故や暴行に抗議して、何回県民大会やっても、何も変わらない」「どうせ、日本政府が決めた通りなってしまう」という絶望的な諦念の意識から、「もう、我慢の限界を超えた」という大きな怒りのエネルギーに変わっているように思われる。それでも、相変わらずの無関心を装う本土の、同じ日本国民に対して、この映画は一つの道筋を示しているようのも思われる。亀治郎のようなリーダが必要だ、と。

 

 沖縄については、映画や文献である程度のことは知っていたつもりだったけれども、瀬長亀次郎のことは知らなかった。恥ずかしい。瀬長亀次郎は戦中と戦後の米軍統治下での県民の自治を訴え、米軍傀儡の琉球政府にあって内部から抵抗した。映画でも使われた、1952年4月1日の写真は、抵抗の象徴として印象に残る。「琉球政府」の設立は、アメリカの占領政策の一環でもあり、傀儡政府の容認でもある。その式典の最後、宣誓文の読み上げの際に、最後尾の席で一人、起立も脱帽も拒んだ亀治郎の姿だ。「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」(ハーグ陸戦条約の条文)を、法的な根拠に、米軍に対して忠誠を誓うどころか、演説では、「一粒の砂も米軍のものではない」と、市民を煽り、米軍を挑発した。復帰前の沖縄では共産党に党籍があることは隠して、返還前の沖縄立法議員や那覇市長に当選している。1950年代の米軍統治下の沖縄では、レッドパージを恐れて共産党籍を隠すことはあったであろうし、沖縄人民党も共産党との関係は強かったはずだ。それは、米軍にとっては公職追放の切り札であったし、逮捕・拘留の根拠でもあった。

 1956年に那覇市長に出馬し、当選した後に、那覇市への水道供給を止められるなど、米軍の露骨な嫌がらせにあったエピソードは、亀治郎の政治的な力に対する恐れの現れだったのだろう。亀治郎を応援する市民が税金を収めに殺到し、納税率が97%に登ったというウソのようなエピソードも紹介されている。

 

 佐古監督が語るように、亀治郎は対米軍という意味では「反体制」であり、左翼であるといえる。しかし、本土復帰や沖縄県民の自治を訴えた愛国者・愛郷者であり、保守的な政治家であったとも言える。対日本国的にはどうだったのか?1970年の国政参加選挙で当選以来、7期連続当選しているが、衆議院議員として日本共産党に所属し、党副委員長(1973年〜)などを歴任した。この頃の亀治郎に対する沖縄県民の評価には、もしかすると温度差があったのではないか? 政府自民党と対立するよりも、内部から沖縄の立場を好転させるという政策を望んだ人たちはいなかっただろうか? 現在も続く共産党へのアレルギーは、当時の沖縄ではどうだったのだろうか? 沖縄選出の議員や県知事が、基地負担に対する迷惑料のような「沖縄振興予算」を引き出した功罪は、経済的な自立の足枷になっていた事実もある。沖縄現代史に詳しくないので、そのあたりは自分への課題とするしかない。

 

 沖縄には、仕事で頻繁に行った時期があったが、謝花昇の話題になったことはあったが、瀬長亀次郎のことを聞いたことが無い。少なくとも記憶にはなかった。謝花は、沖縄初の農学士で明治の自由民権運動に刺激を受けた社会運動家、沖縄の農政改革運動に関わった。沖縄県庁在職時には奈良原繁県知事と対立し、沖縄を追われた謝花は不遇な晩年を送り43歳で狂死したと言われている。謝花昇に続いて、瀬長亀治郎の名前を覚えた。

 瀬長亀次郎のような強い指導者を望むのは、沖縄だけではない。それは、佐古監督のメッセージでもあると思う。真に強い指導者とは誰か? 自分よりも強い物の側に立ち、富める者の主張を優先し、弱者の言葉を切り捨て、学問を軽視し、保身のために解散選挙を強行するような輩でないことだけは確かだ。

2017.09.18 Monday

スウェーデンの歴史など、実は何も知らなかったのだ。

 

『サーミの血 Sameblod』 2016年 スウェーデン、ノルウェー、デンマーク 108

 

 何故かこのところ、北欧の劇映画を観ている。予告編の連鎖に、つい「良さそうだな」と思ってしまい、まんまとハマってしまったこともあるかもしれないけど、ハマったにしてもとても心地よくハマった。

 スウェーデンと言えば、日本がモデルにすべき社会主義・民主主義・福祉国家(*社会主義と民主主義は矛盾しない。社会主義の対概念は民主主義ではなく、民主主義の対概念は唯神あるいは独裁主義だ。資本主義の対概念が共産主義である。)と言われ、税金は高いけれども福祉が充実している国だという認識がある。北欧の家具などが人気があるが、この国についての無知を痛感する。何も知らなかった。

 ラップランド人、サーミ族のことを今まで目にすることがなかった。映画では1930年代、スウェーデンの先住民族差別の歴史を描いている。サーミ族は、ユーラシア大陸中部から移動してきた民族の末裔だと思うのだが、小柄で体型や顔つきにも特徴がある。大柄な北欧の現代人から見れば、明らかに別の民族であることがわかる。トナカイの放牧などを行っていた移動民族は、かつて劣性の種族であると差別され、「脳が文明に対応できない」という科学的(?)論文もあったという。

 主人公の少女エレは、サーミ族の置かれた立場に絶望する。勉強ができて進学を希望しても、民族として無理だと、憧れていた教師に宣告される。その根拠が、科学的研究成果であり、サーミ族が生きるためには、民族の暮らしと・伝統を守ることだ、と諭される。エレたちサーミ族の子どもたちが、研究のためか身体の特徴を計測されて写真を撮られるシーンが有る。

 スウェーデンの人種差別は、現在ではなくなっているのか? 上映後のトークで、北欧の研究者の大学教授は「現在の問題としては、他国からの移民の課題が重要で、サーミ族は元々のスェーデン人であるという認識になっている。相対的に差別意識は薄れている。」という微妙な発言をしていた。そうなのだろうか、とふと思う。現在的な課題からすれば、サーミ族を源スウェーデン人のひとつ、先住民族として認めてもいいけどね、というニュアンスに聞こえた。実際はどうなのかはわからない。身体的な特徴に対する差別を、教育で乗り越えることは難しいだろうと思う。現にアメリカでは、いまだに黒人差別は消えていないし、日本の朝鮮・中国にたいする差別も同様だ。

 第二次世界大戦で、スェーデンは「中立」という立場を取っていたが、それは、他国がナチスの勢力拡大に巻き込まれる中で、半分はナチスに加担していたようなものだと説明され、複雑な歴史を抱えた国だということを改めて気付かされた。大戦当時、隣接する他国を裏切ったことの後悔が、現在の意識につながっているのだろうか?

 いずれにしても、自国の恥部の向き合った映画であることは間違いない。自国の差別の歴史をきちんと描くことは、日本の事情からは遠い理想のように思われた。

2017.08.21 Monday

少年が夢を叶える映画だと思ったら、とんでもない映画だった。

 

 

『きっと、いい日が待っている』

監督:イェスパ・W・ネルスン 2016年 デンマーク 119

 

 

 

主人公の少年エルマーが、宇宙飛行士になりたい少年が夢をかなえるような呑気な映画だと思っていたら大間違いで、これは本当にものすごい映画だった。後味が圧倒的に悪い。でも、観てよかったと思える映画だった。

 

 僕が子供の頃、近くには「少年院前」というバス停があった。「少年院」というのは、犯罪を犯した少年たちが集められ、その内部は、過酷で、残酷なことが日常的に起こっているのだと、同級生や年長者から聞かされていた。少年漫画でも「男組」とか「暴力大将」なんかで、そんなものすごい、刑務所みたいな場所を想像していた。もちろん、この映画のような保護施設と、犯罪を犯した少年を収監する「少年鑑別所」や「少年院」とは違うのだけれども、子供の頃の僕は、そんな「少年院」から、ものすごいやつが脱走してきたらどうしよう、などと妄想していた。

 

 1960年代末のコペンハーゲンを舞台にしたこの映画は、僕の中でもうっすら記憶がある、アポロ11号の月面着陸の出来事が大きな役割を持っている。予告編をぼんやりと観ていた僕は、宇宙飛行士になりたい少年が、やがて夢を叶えていくような映画か、『My Life as a Dog』のような、少年と少女の儚い思い出の話か何かだと思っていた。

 

 美しい映画だと思う。そして、少年たちがこんなに殴られる映画を久しぶりに観た。施設を管理する役人のような教師たちと責任者である校長は、少年たちを更生させるという大義をもって、過酷な規律と労働を強いて、効率よく「正しい少年」にしようとする。その正しさは、少年たちのためではなく、大人にとって都合のいい正しさでしかない。幽霊のように没個性化し、滅私奉公を身体で覚えさせようという、戦前の日本の教育を観るようだった。

 「宇宙飛行士になりたい」と口にしただけで、いきなり殴られ、それは間違っていると言われる。社会に役に立つ職人になることが、ここでの上がりだからだ。一番厳しかったのは、教員の中に変態がいて、少年たちを夜毎に自室に呼び出しているシーンだった。主人公の弟エルマーにもその呼出がやってくる。直接の陵辱のシーンはないものの、目を覆いたくなるようなエピソードだった。事実かどうかはわからないが、こんな施設だったありえただろうと思ってしまう。

 実話に基づいているというこの映画は、自国の政策の恥部をさらけ出している。更生という大義は、こうして、管理する側も、される側も、周囲の人間も変えていく。エルマーの素朴な将来の夢が、そこに裂け目を作ることになるのだが、後味の悪さは消えなかった。

 

 

 

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