2006.03.28 Tuesday

ビデオアートは本当に死んだのか?

昨年はビデオアート40年という節目の年。そしてその直後の今年1月、ビデオアートの父、ナム・ジュン・パイクの死去。と今がビデオアートにとっては本当に節目、のタイミングだ。そのパイクがビデオアートを始めたドイツでは、この歴史をまとめた「40JAHREVIDEOKUNST.DE(ドイツのビデオアート40年)」というプロジェクトがつい先日から公開された。現在、タイトル1と名付けられたこの企画の中に、59作品がドイツにおけるビデオアートのこの40年間を代表するものとして選ばれてDVDやカタログにまとめられた他、ミュンヘン、ライプツイッヒ、ブレーメン、デュッセルドルフ、カールスルーへの5か所でそれぞれのテーマに沿った展示が同時開催されている。ちなみにカタログの始めに、「ナム・ジュン・パイクに捧ぐ」と記されているのが印象的だ。

その中で私はデュッセルドルフ、K21美術館でのオープニングに行ってみた。デュッセルドルフのテーマは「80年代ビデオアート」。

入り口付近に並べられたビデオオンデマンドシステムによる59作品全てが鑑賞できるのは各会場共通。その先を進むと、各所に並べられたモニターや大型プロジェクター、そして区切られた部屋に配置されるモニターやプロジェクター、とビデオアートの展覧会ではお馴染みの光景が広がる。80年代を代表する作家として展示されていたのは、マリーナ・アブラモヴィッチ&ウライ、インゴ・ギュンターなど日本でも名の知られる現代アーティスト、ナム・ジュン・パイクの「グッドモーニング、Mr.オーウェル」も当時の新聞記事などの展示がされている。どの作品も、90年代に映像系の学校にいた私にとっては、「授業で学んだ」ものを間近に見ることができて興味深い。興味深かったのだが…。

見ていくうちにだんだんと苛立ちが湧いてきた。のは、展示作品そのものについてではない。展示の方法がなんとも納得いかなかったのだ。

四角い箱の中に頭を突っ込んで内側に設置されたモニターを観るインゴ・ギュンターの作品のようなものは仕方がないとしても、小さなモニターの前に2つしかないヘッドフォンを待って並ぶ人たちはどうしたらいいのか?それぞれ5分から10分以上にも渡る多数の映像作品全てを観るだけでも膨大な時間が必要なのに、「待つ」時間がさらに必要とは…。極めつけはマリーナ・アブラモヴィッチ&ウライの作品。一室の巨大な4面の壁それぞれに、それぞれの作品が大型プロジェクターで投影されていたのだが、高さが5mはあろうかという大きなフレームの前に、ヘッドフォンはなんとたった1つだけ。2〜3人は余裕で座れる腰掛けが各スクリーンの前にあり、常に数人はその周りを囲んでいても、音が聞けるのは一人だけ。あまりの状況にその場に居たビデオナーレのディレクターも、前回うちで使った特別なスピーカーシステムを貸してあげたい、とつぶやいていた…。(どういうものかというと、スクリーン前に立ち並ぶ数人の脇と頭上を囲むような大きな枠にスピーカーを取り付けたもの。それを見た友人いわく、鳥居スピーカーと言っていた…)

実はこのオープニングに来る車の中で、友人たちが話していたのだ。今回のイベント開催に際して、先日の新聞で何人かの美術批評家たちがコメントを寄せたのだが、そのほとんどが、ビデオアートは時間の浪費だ、とか何とか言い放ったんだとか…。それを聞いた一人が笑って言った。ビデオアートは死んだ、ってか?

そういえば私自身、大学にいた当時、同じ言葉を聞いたっけ。「ビデオアートは死んだ」
私自身はもともと(皆の語る)ビデオアートが何だかよく理解できず、ただビデオを使って作品制作をしていると勝手に投げられた言葉だったので、怒りというよりもどうでもいい言葉だった。だからその言葉を久々に聞いたなあと、ちょっぴり懐かしくさえ思いつつ、でもビデオアートの本場でもそう言われてるのかあ、とぼんやり思っていた。

各作品それぞれは、ビデオアートがどのような展開をしてきたのか、当時の社会状況とも合わせて歴史としては興味深い。それは大いに意味のあることだ。でもそれはあくまでも歴史でしかなくなっていて、じゃあ今、ビデオアートはどうなのか、と言われたとき、この展示状況を見てしまうと、ああ、たしかに死んじゃったのかも、と思わざるを得ない。

まず、批評家たちが時間の浪費、というのもいか仕方ないかもしれない。(もっとも彼等がそう言ったのは、映画やテレビの方法とは反した時間性のことでもあると思うが)作品を見るために、何度も並ばなければならないのは観せることを考えていない。

それからもうひとつ、死んだ、と言える理由について。
それぞれ各作品のアプローチはビデオが新しい技術メディアとして、そしてマスメディアへのカウンターメディアとして登場した時代においては存在理由があった。でも今やビデオは当たり前の存在になってしまった。家族アルバムとしてのビデオどころか、子供たちが携帯電話でビデオを使ってスナップし、やり取りができる時代だ。そんな現代において、過去の作品がアピールしたビデオの特別な概念はもう通じない。ビデオというテクノロジーの可能性、社会・政治的なメディア性などなど、それが「ビデオアート」として語られてきて、そこからなぜか発展することがないのはなぜなんだろう?今や映画作家と名乗る人たちでさえビデオを使う時代なのに。じゃあ今はなんなのか?

新しい表現が出てこない、と言って、作家を攻める人たちがいるが、それはフェアじゃないと私は思う。むしろ、彼等を取り上げてきた批評家やキュレーターなど周囲にも大きな責任があったと思う。

確かにパイクは偉大だった。彼の面白さは、ビデオを革新的に使ったことだけではない。誰よりも早かった時代の先見性をビデオというメディアを使ってアートという表現で見せたことにある。
でもパイクだけがビデオアーティストではないのだ。ビデオメディアのテクノロジーや構造だけが問題ではなく、それで撮影されて映し出された映像そのものが何を語り、伝えるのか、ということも、重要なのだ。ビデオアートの展示を上記のようなある種のスノッブさで行ってきた人たちは、そのことにちゃんと気づいていただろうか?

翌日は同じプロジェクトの別展示と別のイベントを観にブレーメンへ行ったのだが、前日から引きずる苛立ちの余り、偶然出会った観客の一人にと話を交わすうちについヒートアップして、「私は頭で考えて観るんじゃなくって、映像を感じたいんですっ!」と言ったら、そうよね、あなたの言うこと、わかるわ、と言われた。同じことを言った人は他にもいたから、それは私一人の思い込みではないと信じたい。

その日開催されていた別イベントとは、ドイツでキャリアをスタートさせ、その後もドイツのビデオアートシーンに大きく関わったパイクの追悼式だったのだが、奇しくも3週間後に同じ美術館で始まる展示は、彼を先生と言ってNYでの追悼式でもスピーチを行ったビル・ヴィオラである。なぜ私が奇しくも、といったかといえば、パイクの下でアシスタントをしつつ、ビデオアーティストとしてのキャリアをスタートしたヴィオラのアプローチは、ビデオの映像で何を語るか、という重要性も含んでいると思うからだ。

彼等(例えば上記のような批評家とかキュレーターとか)が言うビデオアートは死んでしまい、歴史のものになったのかもしれない。でもビデオメディアそのものはまだ死んではいないので、さてこれからどんな作品や表現が出てくるかな、という期待は捨てたくないなと思う。どんなにフィルム画像との格差がなくなったとか言われても、私はやっぱりあのビデオの尖った感じやフィルムのように鮮やかじゃない柔らかさがある映像が好きだし、現像するまで見られないというフィルム撮影時の感覚も面白いのかもしれないが、その場の時間を味わいながら取るスリリングさも大好きだ。ビデオアートという言葉については、発祥の地に来てまでもまだ疑い深いが、ビデオアート再生、ということが起こっても面白いかなと冗談半分で思ったりする。うん、再生、ができるのはビデオならだし!もっともパイクは、「人生のベータマックスに巻き戻しボタンはない」と言ってますが。
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