2009.06.21 Sunday

"MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その5

フェスティバルというものの一つの役割はコンペティションなどを通して、その時代の動向や革新性を見せていくことである。しかし作品の意味は革新性だけではない。それは時を経てもまた違う展開を見せてくれる内容を持ち得てほしい。それだけの深みや広がりを持つ作品を作るのは作家の仕事だが、その可能性を取り上げて広げていくことはキュレーターの仕事だと思う。そしてこの革新性や動向性だけではなく、その作品自体がどのような意味の可能性を持つか、ということは、現在のアートシーン、特にメディアアートのシーンにおいてはますます重要になってきていると感じる。
なぜならば、近年、特にハイテクノロジーアートの紹介を中心に活動してきたフェスティバルや団体の展示がどんどん失速している感があるし、また彼らのテーマもまた、メディアアートと言った場合、それはハイテクなのか、デジタルなのか、またはあらゆるメディアという点なのか、どのテーマに焦点を絞ればいいのかが不明確になりつつあって、迷走の感がある。それはHigh-advancedやTrendをテクノロジーの側から追求してきた現在、それらテクノロジーが皆の手に簡単に届くようになり、しかしそれぞれの作家唯一のテーマなりコンテクストなりが見えてこない中、似たような横並びの作品が多くなってきた状況があるからだろう。そして冒頭でも触れた通りに、メディアアート、というジャンルの捉え方がますます曖昧になり、そうした状況の中でメディアアートがどこに向っているのか、どこも模索中、ということなのかもしれない。

今回個人的に興味深かったのは、WRO 09のグランプリとして、中国のショートドキュメンタリー作品が受賞したことである。北京近郊の、若い働き手が皆都会へ出てしまい過疎化しつつある農村で、その村にある広大なゴミ廃棄場の山の上を農民たちが歩き回り、回収業者へ売る為のリサイクルゴミを拾い集めている風景を静かに撮った10分程の大変シンプルな短編作品が、いわゆるメディアアートとして認識されているデジタルテクノロジーを駆使したインスタレーションやCG作品を差し置いて評価された(ちなみに2位と3位もビデオアート作品であった)、ということは、つまり技術革新の可能性よりも、この時代や社会との関係をどう描くかというその内容への評価が重視された、ということだろう。
ドキュメンタリーというジャンルの躍進はこの何年か、映画界においても大きな流れとなっているが、その力の勢いを再認識させられたと同時に、常にメディア、またはそのメディアの新鋭を追ってきた"メディアアート"が、テクノロジーの可能性が少々頭打ちになってきたところで、アートとして何を表現し伝えるべきか、その”内容”を問う流れへますます向ってきているという、現在のメディアアートシーンを象徴している、と感じ、そうした中で、今回の"MONO-GATARI"というビデオアートプログラムを紹介できたのは、いいタイミングであったと思っている。

WRO 09の様子は以下のページで見ることができる。
http://wro09.wrocenter.pl/site/photos.php
2009.06.20 Saturday

"MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その4

さてそのプログラム内容はいつかの公開時までお預けとして、ポーランドでの話を続けよう。

WRO(ヴロウ)はポーランド第4の都市、Wroclaw(ヴロツワフ)市で2年に一度開催されているメディアアートビエンナーレである。

1989年にスタートし、2009年のWRO 09で20周年、第13回目を迎えたたこのフェスティバルは、東西冷戦終了直後にビエンナーレ主催団体であるWROアートセンターの創設者、Piotr & Violetta Krajewski(ピオトール&ヴィオレッタ・クライェフスキー)夫妻によって始められた。これまで国際的に現代アート、特にニューメディアとニューテクノロジーメディアによるアートシーンを紹介し、ポーランド国内外のアートシーンの交流を図ってきている。ビエンナーレフェスティバルの他、フェスティバル入賞作品の巡回ツアープログラムや、事務局を置く市内のセンターでの季間展示、若年層対象のワークショップ、アーティストレジデンシーやアーカイブ設立等、実に活発な活動運営をしている。

フェスティバルは複数の賞を備えたインターナショナルコンペティションの他、審査員や招待キュレーター、招待作家による特別上映プログラムや展示、各回のフェスティバルテーマに関するシンポジウムなどを含む。
今回私がプログラムを持っていったのは、インターナショナルコンペティションのプログラムの合間の招待プログラムの枠。
フェスティバル開催3日目の5月7日の午後5時からのスタートで、コンペティションを含む全てのシネマ上映が行われるTEATR LALEK という、普段は人形劇の劇場である建物の上映ホールで行われた。客席数約300席がざっと見て7〜8割程埋まっていたように記憶しているが、後日WROからの報告によれば、270名程の入場があったという。これはうれしい人数だ。
上映前に壇上に上がり、プログラムテーマ、企画意図についての簡単な紹介を私から英語で行い、隣にいる通訳兼司会者がポーランド語でその内容を伝えていく。また日本からのゲストとして、ちょうどイギリスに研究滞在中でヴロツワフまで足を延ばして参加していただいた伊奈新祐氏もその場で紹介させていただいた。地元在住のキュレーターである友人から後で聞いた話だが、この司会者は前回のフェスティバル受賞者が今回はキュレーターとして作品を持ってきた、とそのフィードバックについて触れてくれていたらしい。そこはポーランド語で残念ながらその場ではわからなかったのだが、知っていればもう少し気の効いた挨拶ができたのに、と少々惜しく。

その後すぐに上映開始。先に挙げた順で、作品上映が進む。

前回のWROでは、上映中に再生が止まったり、コマ飛びが激しかったりというDVDプレーヤー特有のトラブルをよく見かけたので、今回も少々懸念していたのだが、特に問題なく上映は進んでほっとした。敢えて言えば、諸事情あって作品を1つのDVDにまとめる上映コピーは作らなかったので、各作品の架け替えの時間をスタッフは心配していたが、これはそれほど気にならなかったと思うし、あとは伊奈氏が指摘していたスクリーンの枠上部に、舞台に設置されているライトの影が少し入ってしまっていたのだが、スタッフ曰く、動かせないものであるということで仕方なくそのままで上映をしたが、大きな邪魔になるというほどではなかったので、許せる範囲としたい。

最初の上映作品、島野義孝氏の「TVドラマ」は、12台のテレビモニターを次々に破壊していくという内容のインパクトとユーモアで観客の笑い声も誘いつつ、プログラムのスタートを切ってくれた。
「MONO-GATARI」がテーマのゆえに考慮はしたものの、言葉のボリュームが多いプログラムである。その言葉は日本語がほとんどだから、当然英語字幕入りで上映をしているが、いくら日本よりも英語を理解できる人が多いとはいえ、母国語が英語圏でない場所ではやはり英語字幕はあくまで補佐的なものだ。加えてポーランドを始め、欧州各国の映画館やテレビでは、外国のドラマや映画は吹き替えが一般的で、字幕を読み慣れていないという環境もある。(ちなみにポーランドのテレビではよく、映画やドラマの吹き替えで全ての役者分を一人のナレーターが担当しているという弁士のような衝撃的な番組をよく見る)だからこそ、映像そのものの”語り”の強さも重要になってくるともいえる。
その点においては、これら10作品は最後まで観客を引きつけていたと思う。こちらの観客はシビアで、興味が薄れてくればさっさと席を立つ。上映中、席を立った人もちらほら見えたが、プログラム終了後に客電がつき、上映開始時と変わらないくらいの観客数にほっとしたのは事実だ。小心者のキュレーターだが、アートだってある種のエンターテイメント、客をどこまで引きつけられるか、そこは客商売と変わらない。客に媚びるということではなく、作品のこと、ましてやアートのことさえ知らない客だって来るのだ。起承転結がわかりやすい親切な商業映画とは違うのだから、そこは見せ方が重要になるわけで、観客の笑い声や鼻をすする声が聞こえればうれしくなるし、ため息が聞こえれば、それはポジティブなものかネガティブなものか、耳をそばだててしまう。

今回の10作品を揃えてからふと気がつけば、プログラム全体の中に女体、それも裸が登場するシーンの多いこと。そんなことで動転する文化は欧州にはないが、しかしこの私が女性なのに女性作家は一人もいなく、そしてこの女体の頻度。もちろんそこを狙った意図は全くなかったのだが、そこも小心ゆえに、もしかしたらフェミニストから質問が来るかも、と、答えを用意しなければと思ってしまった。
ところが終わってみれば意外なことに、プログラム終了後に興味を持って質問に来た人たちは皆女性ばかり。終わってすぐにさっと近づいてきて、とても刺激的でおもしろかった、とコメントを持ってきてくれたのは、WROのコンペティションに参加していたイタリアの女性作家で、その他現地在住の学生やワルシャワから見に来たと言っていた人も、皆女性だった。ポーランドは女性の方が積極的なのだろうか?

当初考えていた上映後の質疑応答の機会は、フェスティバルのプログラムの並びがかなりタイトに組まれていたため、残念ながらその時間を取ることができなかった。が、以下ざっと、その場や後日受けた感想を挙げてみる。何がおもしろかったのか、興味深かったか、という点において…。

アニメやマンガ、ゲームといった既知の日本のメディアアートとは違った印象、日本の伝統的な美と現代アートの感覚が合わさっている、日本語で理解が難しいとはいえ、それぞれの物語がユニークだった、等々。

そうした中で、WROのキュレーターの一人が語ってくれたコメントはとても印象深かった。いわく、こうしたビデオアートを"物語"というテーマの枠組みの中で見ることが刺激的であった、それによってこうした見方もできるのか、作品の印象や意味合いが変わるのか、という新しい発見があったと。例えば伊奈新祐氏の「女拓」は以前WROのコンペティシションで紹介されたときに見ているのだが、この作品が「日本のメディアアート」という枠ではなく、また作家の作品解説だけでなく、別の視点から作品を再考してみるという試みがおもしろい、という。

彼が指摘してくれたことはもちろん私の今回の狙いでもあった。
作品は見る立場によって、または見せる立場によって、それぞれ印象を変える。むしろ、そうした幅の広さや可能性を持った作品ほど、刺激的で豊かな作品と思う。ぶっちゃけて言ってしまえば私がプログラムを組むときは、その作品全てが自分の好みとは限らない。好み、ということでいえばむしろ、あまり好みではない作品も入れる。それは、その作品がまた違う視点で私の狙うテーマを語り、多面性を持たせてくれると思うからである。そうした意味では今回のプログラムはその多様性をこれら10作品が大いに展開してくれたと思うし、これらの作品を紹介させてもらえて、とてもやりがいを感じた仕事であった。

("MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その5に続く)



会場となったTEATR LALEKの外観と島野義孝氏の「TV DRAMA」の上映シーン。まだまだ明るい午後5時という時間帯でもこれだけの観客数が入ってくれたのはとてもうれしい出来事。
2009.06.19 Friday

"MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その3

さて、そのプログラムの内容だが、以下の通り。

トータル上映時間約90分の中で、80年代後半から2000年代までの10作品を選び、Japanese Video Art Program in WRO 09 "MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art"と題打って紹介した。

1."TV DRAMA"/Yoshitaka Shimano/7.22min/1987
 ”TVドラマ” 島野義孝
2."ALONE AT LAST"/Eiki Takahashi/15min/1989
 ”ALONE AT LAST” 高橋栄樹
3."BEYOND"/Takuji Yamaguchi/7.47min/1992
 ”BEYOND” 山口卓司
4."case"/Yasuto Yura/9.22min/1994
 "case" 由良泰人
5. "core m.v.a."/Katsuyuki Hattori/7min/1996
 ”core m.v.a” 服部かつゆき
6. "Nyotaku"/Shinsuke Ina/6min/1997
 ”女拓” 伊奈新祐
7."Unidentical Unreversible Repeated Replay"/Atsushi Sakurai/15min/2000
 ”非同一性不可逆再生” 櫻井篤史
8."DASEIN"/Takeshi Mochida/10min/2002
 ”DASEIN” 持田剛
9."Denotation"/Fumiro Sato/5min/2007
 ”Denotation” 佐藤文郎
10."UNCONSCIOUS"/Yusuke Nakajima/5min/2007
 ”UNCONSCIOUS” 中島雄介

プログラムタイトルである"MONO-GATARI"とは、物語のことであり、また物語り、でもある。
つまり、あるお話というものがビデオメディアの中でどのように語られるか、または物語という日本語が示すように、言葉によるお話(Narrative)ではなく、物の存在がある話を語り伝えていく、という日本文化の中のある一つの考え方をこれらビデオ作品の中にどのように見ることができるのか、ということの提示が、このプログラムのテーマである。
このことを突き詰めていくと、当然それは日本のビデオアート作品だけに限らず、他の国の映像作品にも見つけることができるのだが、まずここは、この物語という日本語を、日本のビデオアート作品紹介の切り口とした。

さて、これらがどんな作品か残念ながらブログではお見せできないし、ネット公開の予定も案もない。プログラムテーマについてもこれ以上は同様しかり。
ということで、見たい方、どなたかこのプログラム上映を招待してくださいませんか?
出張無礼講致します!

("MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その4に続く)
2009.06.17 Wednesday

"MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その2

さて、こちらのアプローチに手応えあり、で企画を進める事になり、最低限の予算はフェスティバル側で用意してくれることになったとしても、できれば上映作家も参加してもらいたいし、その為には別予算も取らなければ、ということで日本/ポーランド両側から助成金の申請を試みてみたのだが、これは叶わなかった。

そのポーランド側の助成金を申請する際にWROから言われて書いたプログラム企画書の中に、フェスティバルディレクターにも話したこの企画の動機の一つ、日本のメディアアートはマンガ、アニメ、ゲームだけではなく、他にもあるのだという視点からこのビデオアートプログラムを紹介したいという旨を書いたのだが、さてWROの開催2日目の早朝に到着した私、夜中の移動で寝不足の頭のまま、もらったフェスティバルカタログを開いて一気に眠気が吹っ飛んだ。なんとこの企画書の文章がまるまるそこに掲載されている。
実はこの助成申請の為の企画書の文章を提出した直後、カタログ用のプログラム解説も書いて締切前に送ったのだが、なぜかそれらのデータはカタログ編集者の手元まで届いておらず、先方は企画書の文章を載せてしまったらしい。
印刷されてしまったものは仕方がないので、取りあえず上映会場で配布できるよう、プログラム解説と作品キャプションを入れたフライヤーを急遽印刷してもらったのだが、これにはがっくりした。直接の担当者との確認は何度も取っていたので、それ以上のことは私の手には負えなく、この結果。とはいえ、フライヤーの準備の対応が早かったのでそこは諦めて気を取り直す。
が、しかし、うーむ、この企画書の文章は助成金申請に向けてのアピールで少々挑発的かとも思ったので、カタログの方には入れるつもりはなかったのだが、もう載ってしまった限りは仕方ない。まあ自分の考えとしては間違いないので、開き直るか。

などとその頃は思っていたが、この「国際メディア芸術総合センター設立構想案」の話題をみて、あの文章が公式に出回ってくれたのは返ってよかったかもしれないと今は思っている。あら、なかなかのタイミングではないですか?

("MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その3に続く)
2009.06.16 Tuesday

"MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その1

最近日本のニュースサイトの記事で知ったが、国立メディア芸術総合センターという施設設立案が国会で審議中らしい。文化庁から申請された予算117億円のこの公共施設設立構想に、首相の漫画好きは周知の事だがそれにかこつけ税金でマンガ喫茶を作るつもりか、と野党から食いかかられているらしい。
まあそうだろう。いくら日本の経済コンテンツとして世界へアピールをと目的を謡っても、この不況の最中でこの政情では政権打倒のいいネタだ。それに経済コンテンツ、と言うならば、文化庁ではなくてこれまでのように経済産業省が推進すればよいことなのでは?

と、これについてはいろいろ私も思うことがあるのだけど、今回のブログ内容のポイントはここ。メディア芸術と言ったときに、それがマンガ、ゲーム、アニメを指すような印象で記事が書かれているのは、今回の懸案に関わっているそれら該当シーンの関係者の識者、当事者や文化庁の発表対応によるものなのだろうが、実際この設立構想案のサイトを見ても、メディア芸術の定義が「映画,マンガ,アニメーション,CGアート,ゲームや電子機器等を利用した新しい分野の芸術の総称」とある。でも本当にそう?

ここに挙げられているメディア(アート)はいわゆる大衆文化として始まったものばかりで、それが芸術となってもよいのだが、実際のところ、メディア芸術、すなわちメディアアートと言った場合、これほど定義がはっきりしないジャンルはない。その領域の定義は”一般”にはもっと広く、この”一般”とは、例えば今回の件の関係者以外の、日本も含めた全世界のアートシーン一般を指す。

メディア芸術、すなわちメディアアートの定義は実に様々、多様であって、例えば私の居るドイツ及び欧州ではメディアアートというタイトルの元に、コンピュータやデジタルメディアを駆使した”新しい”ハイテクノロジーアートもあれば、Time based artと呼ばれるビデオアートや短編映画も含まれ、更にドイツにおいてはメディアアートと言う場合、アナログデジタル、テクノロジー関係無しに様々なメディアを用いる、つまりメディアの組み合わせによって作品展開を図るアートを指す場合が一般的だ。一部に「ニューメディアアート」という言葉はあるが、メディアアートそのものは必ずしも新しい分野の芸術、を意味しない。
日本はといえば、ハイテクノロジーアートもビデオアートも、そして少数だがそのメディアの組み合わせの展開を試みるアートをメディアアートと呼ぶ人々もいるのだが、日本のアニメやマンガ、ゲームが世界的に注目を浴び始めた90年代以降、上記のような定義をしつつも文化庁はその他のメディアアートについてはあまり気をかけてくれていないような…。気のせいでしょうか?

と、別に文化庁にケチをつけたいわけではないのだが、まあそんな風潮もあってか、海外のアートシーンにおいても、日本のメディアアートと言った場合、このマンガ、アニメ、ゲーム、そしてハイテクノロジーアートという印象を持たれているように感じる。
いやちょっと待て。海外のメディアアートシーンにはまだビデオアートのシーンもその他のシーンも活発にあるのだ。日本は、といえば、ここ何年か、例えばビル・ヴィオラの回顧展のヒットなどでまたビデオアートに若い世代も含めて視線が戻ってきている感はあるが、といえ、衰退したとか古いとかいろいろ言われてしまっている状況。しかし、しかしである。我が団体SVPを忘れては困るよ、とアピールしたいわけではないけれども、SVP以外にも活動しているビデオアーティスト、ビデオアートの団体はもちろんあるわけで、そんなシーンの中にいる身としては、日本のメディアアート=マンガ、アニメ、ゲームだけと思われては不服ではないか。

と常々思っていたことが、今回のプログラム、Japanese Video Art Program ""MONO-GATARI"の出発点の一つである。
もう一つの動機としては、アーカイブ保存の問題が問われている日本のビデオアート作品を、何らかの形でまた再生させたい、という思いがあったことだ。(思えば再生という言葉はビデオの再生と同じに書きますね)それも回顧などではなく、あるテーマの元に新旧取り混ぜた作品並びを見せる、ということ。特に技術進歩とテーマが絡むことが多いメディアアートが時代の波と共に薄らいでしまうのは、その技術の革新性や時代性だけに注目と評をしないキュレーターや批評家など紹介の立場にも責任がある、とするなら、その紹介の仕方で過去の作品も甦る、他のジャンルでは行われているキュレーションの方法をなぜメディアアートのシーンでもっとできないのか、と思ったからである。

さて、そこでその”日本のメディアアート”を紹介できるのはどこだろう、と考えあぐねた結果思い当たったのが、2009年に第13回、20周年の開催を迎えるポーランドのメディアアートビエンナーレフェスティバル、WRO。他のフェスティバルの名前も頭の中に挙ったが、ここは予算がないだろう、とか、ここは過去の作品は展示しないだろう、とか、ここはあまりちょっと…信頼できないかも、等々、消えていった中で思い当たったのがこのフェスティバル。ビエンナーレ形式で2年に1度の開催なのだが、実は前回2007年度のWROでは私自身が賞を頂いた。その後その受賞作品がWROのツアープログラムに加わり、1年半程、あちこちのフェスティバルや教育機関などで上映されていたのだが、その上映ツアーに参加するための契約、契約金や税金の処理、そしてツアー後の報告等、最後まできちんとした連絡や対応を取るその運営姿勢に信頼がおけたので、では試しに、と話を持っていったところ、先方が興味を持ってこの90分のプログラム招待上映となったのであった。

このときWROのフェスティバルディレクターに出した提案書に書いたのは、まさにズバリ、このこと。
一般に日本のメディアアートとはマンガ、アニメ、ゲーム、ハイテクアートという印象があるけれど、それらとは違った視点でこのビデオアート上映を企画したいこと、そしてそれをこの"メディアアート"フェスティバルで上映させてほしい、ということである。
WROはその名もメディアアートビエンナーレと言うからに、コンペティションや特別企画プログラムも含めた出展作品は、ハイテクノロジーを駆使したインスタレーションやCG作品も多い。が同時にビデオアート、またはショートフィルムと呼ばれる形の上映型の作品のシアタープログラムもあれば、アナログメディアを組み合わせた作品もある、更には身体を使ったパフォーマンス作品もある。その幅広さに期待して、上記の思いをぶつけてみたわけだ。
これまでにも日本のメディアアーティストたちの作品を紹介してきたWROだが、ざっくりとそのフェスティバルの傾向を言うなら、例えばビデオアートなどの上映型Time based artを中心とするのがEuropean Media Art Festival Osnabrueckでハイテクノロジーアートが主のArs Electronicaとするならば、WROはその真ん中に位置するような感じ、とでも言おうか。

("MONO-GATARI / Narrative in Japanese Video Art" その2に続く)

ヴロツワフ市中心に位置する、WROアートセンター外観。フェスティバル開催中はここにインフォメーションセンターが置かれ、いくつかの作品展示、またシンポジウムも行われた。
2009.06.12 Friday

欧州支部より、これを見ろ!「running sushi」

またまたご無沙汰しております。欧州支部の中沢です。

さて東京の方から、知人の映像作家たちが参加するプログラムのお知らせがきました。

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イベント名:『Hors Piste Japon 2009』
作品名:『imago・鏡の中』2003
日時:2009.06.14 14:00 - 21:00

場所:東京日仏学院 エスパス・イマージュ
〒162-8415
東京都新宿区市谷船河原町15
Email :tokyo@institut.jp
Tel :03-5206-2500

料金:上映プログラム1回/一般1000円、会員500円 シンポジウム・カンファレンス/無料
http://www.institut.jp/agenda/festival.php?fest_id=65

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どれもおもしろいと思いますが、私が今回お勧めしたいのが、6月15日上映予定のプログラムより、オーストリアの映像作家、マラ・マテューツカ、クリス・ハーリングの「running sushi」。この作品、昨年のオーバーハウゼン国際短編映画祭で奨励賞を受賞した作品で、彼らは一昨年には別の作品で同映画祭参加、今年は新作の「Burning Palace」でオーバーハウゼン映画祭賞を受賞しています。
マラ・マテューツカは既に十数年以上のキャリアがある映像作家ですが、私が彼女の作品を見ているのはこの上記の3作品。毎回同じチームのパフォーマーたちが登場する彼らの作品は実にエキセントリックでユーモアたっぷり。もしかしたら受け付けない人もいるかもしれません。実際今年のオーバーハウゼン映画祭では、ある女性客は不快のコメントを言っていました…(もちろん一方で上映中に笑い声が沸き、その皮肉に笑わされながら見ている観客も多かったことは付け加えておきます)
しかし私はこのエキセントリックさこそ、人間の深層に潜む真実を語っているとつくづく思います。「running sushi」は回転寿しをつまみながらあれこれと会話をする男女カップルの話。男と女の心理の駆け引き、本音と建前、関係の強弱など、うなづかせられてしまうポイントをよく突いています。
パフォーマーのエキセントリックな叫びや動きは、私たちの理性の裏に隠れた思いなのかもしれません。作品の激しさが何を語ろうとしているのか、みてみてください。私がここ数年大注目している女性作家です。
ただ日本で上映するには日本語字幕が必須と思うのですが、今回は日本語字幕は付いているのかしら。少なくとも英語字幕は付いていたと思います。
ということで、欧州支部より、必見の作品、とコメントしておきます。
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