2011.04.28 Thursday

ふと東京近郊の農家を思った 『遠雷』

 日大の今年のゼミで4年生のひとりが、ATGの時代の青春像に興味を持ち、主人公の思想や行動の動機などを調べてみたいといった。ATGについては、実は僕はあまり知らない。例えばこの映画『遠雷』が公開された1981年は、大学の2年生の年だ。ATGとは言ってもこの時期は第3期目で若手が登用され始めた頃だった。その頃は大学の雰囲気が嫌だった。日大の芸術学部は、デザイナーブランドを無理して着飾った派手な男女と、何日も風呂に入っていないような下駄履きのむさくるしい男達が同居していた場所だった。どちらにもなりたくなかった。もちろんどちらでもない連中もいた。学生運動で最も過激な行動派だったという「芸闘委」の姿はどこにもなかった。どこかに痕跡があったのかもしれないが、映画の中と同じ建物以外は見つけることができなかった。学内には「アジア研究会」などという怪しいサークルがあって、その類の研究会は当時社会問題になった統一教会の勧誘サークルだと聞かされていた。何もなかった。だから、同じ福岡から出てきていた「めんたいロック」のバンドたちに熱中した。学校に行くよりも、早稲田の「ブリティッシュビート研究会」の連中と遊んでいた。バンドも始めてサークルのバンドと一緒にライブもやった。

そんな頃に、ATGにはあまり興味がなかった。唯一、ロック映画を作っていた石井聰互がかっこいいと思っていたが、彼も博多の人だった。こんなふうにロックとまともに向かい合えるのだな、と思った。余談だが『爆裂都市』の「バトルロッカーズ」でベースを弾いていた伊勢田勇人とは、その後短い間バンドをやっていた。一度だけ同じステージにたったが、やつのあまりのパンクぶりに驚いた。練習スタジオに入ると、自分たちが使わないアンプを平気で放り投げていた。今思えばスタイルだったのだろう。正直、ちょっと怖くなった。

学生の研究テーマがきっかけで、改めてATGの時代を観てみようかと思っている。『遠雷』は立松和平の同名小説(80年)の映画化で、舞台も東京郊外とあるが、立松の出身地である宇都宮が出てくる。東京郊外というエッジで、中途半端な都市であり、中途半端な農村。具体的には宇都宮だが、不均衡のしわ寄せが澱んでいるような街だ。トマト畑のビニールハウスの背景には大型の団地が建っている。中途半端な構図、魅力のない風景。つまらないことで起こる諍い。楽しみといえばスナックの浮気な女と遊ぶか、若い女とモーテル(これも死語か)に行くくらいだ。そして成り行きのような結婚。突発的な殺人。映画のラストシーンでは、披露宴が続く朝方にベランダで永島敏行と石田えりが、桜田淳子の「青い鳥」を歌う。「ようこそここへ、クッククック〜」。見事なミスマッチ、苛立たしいほどに、その空気がつまらない。だからこの映画はいい映画なのだろう。

僕が80年代に思っていた中途半端な気持ちはこうした風景と似ていると思った。


『遠雷』

監督:根岸吉太郎 出演:永島敏行、石田えり、ジョニー大倉

1981年 ATG 135


2011.04.27 Wednesday

クライシス・オブ・ジャパン−災害/アート/政治的激動をむかえて

映画作家の宮岡秀行氏より、以下の案内をいただきました。
札幌在住の方はぜひ。
今見るべきもの、ということなのかもしれません。

会場・主催:札幌大谷大学 札幌大谷短期大学部
タイトル:「クライシス・オブ・ジャパン−災害/アート/政治的激動をむかえて」 
講師:宮岡秀行、岡部昌生
申し込み・問い合せ:「公開講座係」(011-742-2020)

畏れ(怖れ)のないところで、学ぶことはできるのか?  自分よりも桁外れに大きなものを察知したとき、人間はその力をどう受けとめるのか。ドイツのヴェルナー・ペンツェルの「A Letter From Japan-Childrens Refugee Republic」(2011)と、イギリスのベン・リヴァースの「I know where I'm going」(2009)を国内初上映、その他ミヤオカセレクションによる映画の断片を流しつつ、「地球の危機」を考えて行きます。

*講義の後半はヒロシマの被爆の残傷を擦りとる、岡部昌生さんとの対話です。わたしは聖痕(あるいは残傷)というと、アッシジの聖フランチェスコの服のことを思い出します。ボロ布のようなものなのですが、そこには聖なるものが漂っていました。そして、世界中から来た人たちが見つめて感じていました。それは、「最も傷ついたものに最も聖なるものが宿る」ということなのでしょうか。または、「最も貧しいものに最も聖なるものが宿る」ということでしょうか。ロベルト・ロッセリーニの映画「神の道化師フランチェスコ」のなかで、「お坊さん」たちが毛布かなにかをかぶって固まって雨をしのいでいる場面が出てきます。でも、あの雨は浄化してくれる水ではなくて、ただ、ただ、辛い、忍ぶ、雨でした。私たちも耐えることをもっと学ばないといけないということでしょうか。(宮岡)
2011.04.26 Tuesday

牛が寿命で死ぬということ 『牛の鈴音』

劇場では見逃していた作品だったが、作品の高評価が気になっていた。近所のレンタルビデオ店で見つけ、深夜に観た。

耕作用の牛というのは、いまの日本にどれくらいいるだろうか? 現在の牛の畜産といえば、搾乳のための乳牛か肉牛の肥育、繁殖、あるいは極稀に新潟の山古志村や沖縄・奄美のような祭祀や闘牛のための飼育もある。観光用の古いサトウキビ製法で大きな木製の道具を引く牛も見たことがある。でも沖縄の離島などではまだ耕作もしているかもしれない。あるいはどこかの山村で、ひっそりと牛が荷物を運んでいるのかもしれない。

福島原発の警戒地域で、町に放たれた牛の様子や、牛舎に残されて飢えて死ぬ牛を姿を思い出した。メディアに出てくる家畜は、適度に気の毒な対象として映るのだが、現実には路上でのたれ死んだ死骸や悲劇的に痩せ細った姿があるのだろう。テレビや新聞ではなく、ネットでの知人からの報告で知ることができる。国は畜産農家の許可を得て被曝した家畜の殺処分をするつもりだという。

飼い主のもとで寿命まで生き、体の不自由な老農夫と共に、耕作や運搬の作業を続けていたこの牛の姿は、とても誇らしく映る。その姿は痩せて毛もところどころ抜け落ち、足腰も弱々しい。世話にも手を焼くようになり、妻に説得されて老牛を市場に売りに行くが、仲買人には笑われ、当然安値しかつかない。売らずに家に戻った老人は、きっと初めから売らないつもりだったのだろう。

農薬を使わないのは、牛が食べる草が毒になるからだ、と力強く語る老人は、その妻が不平を口にするように、明らかに、妻よりも老いた牛を大事にしている。機械を使わないのは収穫が減るからだと、ほとんど理不尽な理屈を通す。周囲が農薬を使っていれば、害虫は農薬が使われていない田畑に集まる。こんな単純な理屈もこの老人は聞かないだろう。貧しいと言ってしまえば、そのとおりだという暮らしや風景に、誰もがヒトのゆっくりとした営みを感じたことだろう。羨ましいとは思われないが、都市部に生きるヒトには感じることのできない、生きるための、平凡だが力強い営みがある。

日本の一般的な畜産農家では、肉牛はもちろん、乳牛も寿命まで牛舎にいることはないだろう。それでも牛馬を手放すときの農家は、家族や子供を見送るような気持ちだという。福島で牛や馬を野に放った人たちは、せめてどこかで生きていて欲しいと願ったからだ。

この老人も、きっと畑かこの古い家のどちらかで死ぬのだろうな、と思った。


『牛の鈴音』

監督・脚本・編集:イ・チュンニョル

2008 HD35mm

78分 シグロ

2011.04.21 Thursday

とてもキレイなヒトを観た

 友人の茂野雅道くんから久しぶりにメイルが来て、この映画の音楽を作ったのだという。彼は映画音楽の作曲家で、CMの音楽なども沢山作っている。面白い友達だ。この映画がもうじきロードショウ公開が終わるから見て欲しいというメイルだった。420日に観に行った。水曜日だったので女性が割引でたくさん来るのではなかと思ったが、17時の回は10人ほどの観客だった。

 アートドキュメンタリーについては、以前短い文章を書いたことがあるが、この映画は、「アーティスト・ドキュメンタリー」に相当する。ある時期のアート・ムーヴメントを描いたものや、奇抜な写真家を集めたものなど、時代を横軸で切った状況論としての映画がある。この作品はひとりのアーティストの作品制作の背景や、個人のアートに対する立ち位置を理解することができる。アート・ドキュメンタリーは、ユーロスペースで以前は積極的に公開していた。毎年楽しみにしていたのに、ある年から無くなってしまった。本当に面白かったのに。

 「とてもキレイなヒトを観た」と、鑑賞後に映画館のそば、渋谷のホテル街を歩きながら反芻していた印象だった。「ただ、愛してほしい」と手にとったチラシにあった。「愛」を衒い無く語ることは難しい。少なくとも僕には難しい。でも、「ピューぴる」が語る愛は、なんと言ったらいいのか、とてもそのままだ。

 誰もが「愛」を語るし、それは許されている。身近な恋愛対象への異性愛、夫婦愛、家族愛、隣人への愛、他人への愛、今なら被災者への愛情。そして自分への愛。この映画で描かれるのは、自分への愛でありながら、誰かに向けられた愛だと思う。僕らには理解しにくい部分だとも思う。

 ピューぴるが語る理想は「自分の頭の中にある中性的なキャラクター:ピューぴる」なのだと言う。男性でも女性でもない中性的なキャラクター。そこに近づこうと苦悩するピューぴるの姿が、痛い。全身脱毛、目や顎の整形、去勢手術。どれもが男性として生まれた彼が、女性に近づこうとする努力ではないように思う。どちらでもない「ピューぴる」という中性に近づこうとしているのだと思った。

 インタビューの中の、ふとした仕草や言い回しに、女性よりもむしろ女性らしい振舞いとか、「パパ」に会いたい、という少女のような彼の姿に、異形を見るような鑑賞者・自分は、手痛いしっぺ返しをもらったように思った。本当に「キレイなヒト」だな、と素直に思った。

 この映画を見てよかったと思ったのは、たまたま見ていなかった2005横浜トリエンナーレのその出品作品も、あるいは、パフォーマンスも、この映画を見ないで、その状況に立ち会っていたとしたら、こんなふうには思わなかっただろうなということだ。一瞥して「日本の現代美術はこんなやつが出てくるほど駄目になったんだ」と思っただろうな。

 技術的なこともちょっと。作者がインタビューをしながら、対話をするような感覚で現れる映像は、気持ちが伝わる反面、背景にフォーカスがずれる画面や、フレームに集中出来ていないカット、音声の聴きづらさ、など素人の作品と呼ばれかねない難点もある。大きな画面で見ていると余計に辛い。これはどちらを大事にするかという問題でもあるので、トータルな作品評価の中では不問になることかもしれないが、やはり、映像を見せているという意識は大切にしてほしい。

 最後に、茂野くんの音楽も良かったよ。「キレイなヒト」に会ったというのは茂野くんも思ったんじゃないかな。そんな歌詞でした。

 余談だけど、とてもキレイだったdumbtypeの古橋悌二さんを思い出しました。彼も「愛」を語り続けた作家だった。

 

『ピューぴる』

監督・撮影・編集:松永大司 音楽:茂野雅道

2010年 デジタル

93

2011420日 ユーロスペース


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