2011.07.24 Sunday

原発事故を写す鏡「水俣」

 福島原発事故から原田正純さんの著書、編著を読み返している。『水俣学講義』は4集まで持っていて、2集以降は講義のタイトルを見て拾い読みしていた。読み返してみて、あらためて原発事故を写す鏡としての「水俣」を考えてしまう。

 第2集の25頁〜「過去を置き去りにしない」という原田さんの項で以下のような記述があった。「いま、(2005年当時)環境再生という言葉は全国的に流行っています。「環境」を頭につけた研究者は6000人くらいいるそうです。岐阜大学の学長の宮本憲一さんによると、環境関連の事業は、全国で20億円くらいの規模で展開しているそうです。(中略)それなのにそれなのになぜ環境は良くならないのだろうか〜」この前段には「熊大医学部で水俣病の医学論文で博士号をとった人は100人くらいいます。(中略)たくさんの研究者が水俣病のことを研究したのですけれども、それを現地に、あるいは被害者にどう返していったか。」と記されている。水俣がなぜ50年以上たっても解決していないのかは、こうした研究者の責任も大きい。もちろん、研究者だけの問題ではないから、解決が遅れたという言い分もあるだろう。水俣では家族・集落という最小の地域と、政治と経済を含めた国の問題が様々な形で現れ立ちはだかった。そうした困難は沖縄とも似ているかもしれない。しかし、医学が弱者・被害者救済という立場では機能せず、もっぱら「どこまでを水俣病と認めるか」といった政治的解決のための基準作りの手段として機能したとき、既に純粋な医学としての使命を失った。おそらく環境の研究者も然りであろう。

 今後福島で起こることは、間違い無く救済差別である。水俣病患者が苦しんだのは、チッソや行政の対応だけではなかった。「チッソよりも隣人が怖かった」と述懐する患者の言葉に、地域コミュニティーが崩壊した真実がある。補償金をもらった人、そうでない人、その金額の差、あるいは今後現れるであろう、放射能による健康被害とその因果関係、医療保障、地域を引き裂く妬みや嫉みが必ず引き起こるし、既に義援金の支給額でもめている。

 「水俣で起こったことを繰り返さない」とは環境に重大な影響を与える事故を起こさないということだけではない。現在、テレビや各種メディアに登場する原発推進派の学者・研究者たちを見ていると、6000人の意味がわかってくる。

 『水俣学講義』第2集 原田正純 編著

2011.07.10 Sunday

愚か者ほど出世するのだろうか?

 『愚か者ほど出世する』 ピーノ・アプリーレ著 泉典子訳

 しばらく前に買っていた本だったのだが、読まずに本棚にあった。このところの日本の状況を見ていて、ふと、タイトルが気になって読んでみた。新書版のサラリーマン向け実用書みたいなタイトルだけれども、イタリア人のジャーナリストが書いている。養老孟司が序文を書いていたので、この本が出た2003年というのは『バカの壁』が流行った時だったのかなと思い、原題は本当にこういうタイトルなのかと調べたら、「愚か者の賞賛」という意味だった。
 著者は、世の中にこれほどバカが多いのは何か重大な理由があるのではないか、という仮説を持ち続けているうちに、『ソロモンの指輪』で著名な動物行動学者コンラート・ローレンツと出会う。そして取材中にその自説について尋ねてみるのだ。「先生、先生は人間の行動の多くは、知性をより多く利用する方向ではなく、利用しない方向へ進んでいるとは思われませんか? そしてそんなことになったのは、というか、どうしてもそうなってしまうのは、社会や文化のせいだとは思われないでしょうか。われわれがバカになるように条件付ける、一種の文化的な(その上たぶん自然的な)選択があるのだとは考えられないでしょうか?」と。「あなたは想像もできないほど大きなことを考えはじめているのです」という老学者の言葉に、著者は大きな刺激をうけることになる。
 この本は、ローレンツの死後、著者とローレンツの紹介によるオーストリアの哲学者とが、この話題についての往復書簡を交わすという展開になる。
 人類の祖先は、それまでの地球上でのサバイバルの条件に「知能」という項目を加えた。「数か力」のどちらかが生存の条件だったところに、どちらでもない者が生き抜くためには「知能」が必要だった。しかし、生存のための知恵が必要となくなった時代から、人類の最大の課題は、増え続ける人口をどうやって維持するかという問題になった。
5万年か3万年前からホモ・サピエンス・サピエンスの脳の体積は減り始めた。その理由は生存のために知能を使うことがなくなったからだ。外敵から身を守ることや、自然の脅威を知恵で乗り切ることなどが徐々に少なくなっていく。もっぱら、増え続ける人口を維持するシステムづくりだけが知能の使い道となる。そして、そうした制度と直接関係の無い生活を送るものは、ますます、頭をつかう機会が少なくなる。
 一方で、人類は優秀なものを排除するシステムを構築する。同種への攻撃性を正当化するための部族間の紛争や大規模な戦争は、戦場という場に最も強いものや、最も賢い者を集めて相互に殺し合う。古代ギリシャが滅んだ理由も、優秀な人間を殺しすぎたからだという。祖国に残ったのは無能で、臆病で、力のないものばかりだった。しかし、こうした論はもちろん冗談の域を出ない。面白い話ではあるけれども、科学的だとは言えないだろう。
 一方で、先進国で裕福な国は教育の程度は高いけれども少子化に向かい、貧しくて満足に教育を受けられない国や地域は、子沢山で人口が過密状態になる。インドの人口は12億1000万人だがそのうち8億3000万人が1日50セント以下の生活をしているそうだ。1億5000万人の中産階級が消費はもちろん、政治・社会のシステムを支えている。(週刊金曜日2011年7月1日号「アンダルティ・ロイが語る世界危機」)
 飽和した社会を支えていくためには、一部の賢者が多くの仕事をしてはならないのだ。企業の創設者はひとりでたくさんの仕事をこなしていたが、代が変わればその仕事を数人で分け合うことになる。その時に賢い人間がいると、ひとりで創設者みたいに仕事をしてしまう。これはシステムにとっては具合が悪いのだ。国会でも官僚でも、本当に優秀な人間がいたら、後は要らなくなってしまうではないか。ローレンス・ピーターの「バカ増殖論」というのが紹介されている。「いかなる階級社会でも、ひとりひとりはしだいに昇格する。そしてしまいには、能力が職務に追いつかなくなる。そのために、それぞれの職務は能なしの手に委ねられるという結果になる」そうだ。しかし、著者は言う。「しかし、実情はこうではない。バカがあふれる理由がいくら分かっても、真の疑問への答えにはならない。真の疑問とは、バカがこんなに山ほどいるのに、いったいどうして世の中はこうもスムーズに進んでいくのだ? ということだ」と。「有害なファクターがこれほど大規模にはびこっていたら、間違いなくその種は滅んでしまうか、あるいは自然によって修正されるはずだからだ。ところが人類は絶滅などしていないし、バカは増え続けている。それなら結論はひとつしかない。生き残っている利口者には迷惑かもしれないが、バカは人類の存続に不可欠だということだ。」 そうか、官僚機構というのはまさにこういうことの循環なのかもしれない、と納得してしまう。「組織の程度を決めるのは、その一員になるのに必要な最低限度の能力だ。ラクダ100頭から成るキャラバンのスピードを決めるのは、99頭の足の速いラクダではなく、足の遅い1頭のラクダなのである。」というような比喩も、冗談として受け流すことができないくらい現実に当てはまっている。
 著者が最後の項のタイトルとしたのは「結論として 人間がサルの祖先なのだ」という章だ。人間とチンパンジーの遺伝子レベルの差は約2%である。別の本で読んだのだけれど、1%の差というのは馬とシマウマの違いくらいなのだそうだ。人間とアカゲザルで約4%だと書いてあった。著者は「生物学時計」によると、人間とチンパンジーの二つの種が分かれるのは、約150万年前だとしている。チンパンジーが生まれたときには人間という種が既に居たのだというわけだ。様々な説があるのかもしれないが、最近読んだものだとその分岐は500万年前だとも書かれている。現代人の直近の人類は約4万年前のアフリカまで遡る事ができるそうだが、「人間がサルの祖先であってその逆ではない」という説は、『猿の惑星』みたいで愉快だ。
2011.07.09 Saturday

愚行はいつまで続くのだろうか?

『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』 原田正純 著

 福島原発の事故以来、水俣で起こったことと、これから起こるであろうことが比較されることがある。この本は2009年の発行でありながら、読み続けていくうちに、福島の原発をめぐる今後が見えてくる。
 事故発生からこれまでの東電と政府の対応や、事故に関する事実やデータの隠蔽、今後必ず現れる補償問題と、その認定制度の制定、その結果、将来にわたって続くであろう補償金の差別は、まさに水俣病の経験を繰り返すことになりそうだ。『百年の愚行』(2002年)という本があるが、世界中で繰り返された人類の愚行が100枚の写真で紹介されている。戦争以外で日本が紹介されているのは「水俣」だけだ。しかし、今ならば、チェルノブイリとスリーマイルと併せて「フクシマ」が載ることだろう。

 原田正純さんとは一度だけお会いして、ほんの少しだけご挨拶をした。チッソ水俣工場の第一組合が自主的に解散式を行った日だった。第一組合最後の書記長だった叔父が司会を務めた式だった。原田さんの柔和な笑顔はいくつもの記録映像で観るそれと少しも違わなかった。

 『宝子たち』では水俣での出来事を中心に、カネミ油症、ベトナムの枯葉剤、ジャカルタの環境汚染、原爆の体内被曝など、人類が出会った環境汚染と人体への被害が、原田さんのフィールドワークでつながっていく。「現場を歩く医療」を50年にわたって実践した医者の現場報告でもある。
 第六章「水俣学と環境倫理」の項は、今、フクシマを経験している我々への提言として読める。「毒は薄めれば、毒でなくなる」という考えは自然界の機能の一面を強調している。自然界には「濃縮と希釈」という二つの機能が存在する。「人類は己に都合のいい機能だけを自らの都合のいいように利用してきたのです。」と原田さんは言う。福島で続く「水」の汚染は、まさにこうした驕りである。
 「胎児性水俣病」は毒が胎盤を通過したという、人類史上初の事例である。だからこそ原田さんは「従来の倫理学は現在時点が主な対象であったと考えられました。しかし、胎児性水俣病の確認は自然(環境)に対する配慮が未来世代に対しても必要なことを示した初の事例でした。すなわち、新たに世代間倫理(未来倫理)とでも言うべき問題が表面化してきた重要な事件でした。」という。そして2004年の水俣病関西訴訟の最高裁判決では「未来に対する危機の感覚を持つことは政治家、技術者、私たちの義務、他者の存在に対する配慮義務である」という倫理観が判決に盛り込まれた。
 しかし、考えて見れば、水俣病の公式発見から55年になろうとしている日本で、一度もこのような倫理観が守られなかったのは何故だろうか? 水俣病の発生した後に、新潟の第二水俣病が起こり、教訓は活かされず、その後もアマゾンの水俣病や、世界の環境汚染に対して、原田さんや水俣経験者の働きかけや直接行動にもかかわらず、愚行は繰り返され続けた。
 
 2002年から熊本学園大学で展開されている「水俣学」については「まず、弱者の立場の視点に立つ学問でありたいと思っています。公害は決して平等には起こりませんでした。」とある。環境学をベースにして、学者や研究者だけでなく、患者、医者、漁民、映画作家、ジャーナリストなどが、それぞれの立場から「水俣」という「大きな物語」を語っている。「水俣」は「病」に特化すれば事実が矮小化してしまう。このことは水俣の経緯を知る人ならば理解できると思う。この水俣学の講義録は既に第4集まで刊行されている。

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