2012.04.28 Saturday
『「赤」の誘惑』に誘惑されて、ホームズの素人が『緋色の研究』を読んでしまったら、奇妙な偶然に出会った。
『緋色の習作』
アーサー・コナン・ドイル
河出書房新社 1997年9月1日発行 *原著は1886年に書かれ1887年発行
僕はシャーロッキアンという言葉があることを知らなかった。「日本を代表するシャーロキアン小林司、東山あかね」が全作品を新たに全訳したのがこの全集らしい。シャーロキアンというのは、シャーロック・ホームズを実在の人物と仮定して歴史的な背景などを研究・検証する人、あるいは熱狂的なファンを、そう呼ぶそうだ。『シャーロッキアン』というタイトルの漫画もあるようだが、これも見たことがない。この全集の価値は、どうやら新訳ということに加えて、1894年版のハッチンソンによるイラストを復刻していることと、123ページにも及ぶ注と、続くオックスフォード版の詳しすぎる解説にあるらしい。確かにこの二つの分量は本文を超えている。物語は第一部の語り部ワトソンの回想として始まる。従軍医だったワトソンがアフガニスタンで負傷し、帰還した後に放埒な年金者生活を送り、生活に困窮し始めて安い住居を探していたところ、偶然に出会ったかつての知人に相談する。その同居人として紹介されたのがシャーロック・ホームズだったというわけである。そのワトソンの回想が、逐一歴史的な事実や背景と照合されるために、読者は膨大な注釈を繰ることになる。
僕は、近所の図書館で検索するときに『緋色の研究』で探していたのだが、「研究」と「習作」は別の本なのだろうかと思っていたほどの、シャーロック素人だった。訳者の解説によれば『A Study in Scarlet』の「Study」はこれまで「研究」と訳されていたが、「緋色で描いた習作の絵」というほどの意味なので、この全集では「習作」としたらしい。
そもそも、僕がこの本を読もうと思った動機は『「赤」の誘惑』で執拗に引用されていたからだ。そして蓮實重彦の長い引用と分析にもあるように、この本のタイトルが『緋色の研究』である理由は殆ど希薄で、内容とも無縁だと思われる。この「緋色の習作」という言葉は、ホームズが出会ってまだ間もないワトソンに言う「ちょっと芸術的な言い方をして、緋色で描いた習作とでも呼ぼうか。人生という無色の糸かせの中に、殺人という一本の緋色の糸がまぎれこんでいる。ぼくたちの仕事はその緋色の糸をほぐして、分離して、そのすべてを、端から端まで取り出すことなのだ。」(p60)という部分に一度だけ現れる。普通に読んでいれば、その部分は会話の中の喩え話でしかない。そして蓮實重彦は、作品中にはわずか二行程度にしか現れないその「緋色」という言葉と色彩について、第9章の[鶻「緋色」の糸に導かれて]の中で26ページ渡って考察している。その章で語られるのは、例えばダシール・ハメットによる『血の収穫』における血なまぐさい「赤」の氾濫ではなく、ひたすらその希少性であり、それでも「作品の主題論的な役割を演じることができる」という一点である。
こうした動機と、蓮實重彦による考察を反芻しながら読み進んでも、最後まで「緋色」の主題論的な役割というものが、僕にはわからなかった。しかしそれとは別に、『「赤」の誘惑』を読み終えて、次に読んだ高山宏の『表象の芸術工学』の中でも、シャーロック・ホームズが幾度となく引用され、物語とインテリアとの関係が論じられていたのは面白かった。しかし、それ以上に、『緋色の習作』を読み終えた翌日の東京新聞朝刊26面に「宗教の壁に苦戦?」と題したコラムが掲載されていたことと、同じ日の夕刊1面には「紙つぶて」で「ホームズの科学」と題されたコラムが、立て続けに掲載されたことに驚いた。「宗教の壁に苦戦?」は、アメリカでの大統領選挙戦を戦う共和党の候補ミット・ロムニーが、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の教徒でることに触れている。モルモン教は、現在の日本ではキリスト教の一派と理解されているが、アメリカでは異教や邪教として区別されているという。教徒の数は全米で2%に過ぎないという。ロムニーが「私は自分の宗教に誇りを持っている」と強調したことが、宗教右派からの嫌悪感に加えて、いくつかの風評も招いているらしい。その風評にあるような「ロムニー氏の祖父は一夫多妻のコミュニティーにいたのでは」などは、まさにアメリカ人が得意なネガティブ・キャンペーンに使われそうだ。
また、「ホームズの科学」ではシャーロック・ホームズが初めて登場する『緋色の研究』をとりあげ、その科学者として登場する際の描写とセリフの科学者らしい部分を引用している。シャーロキアンがホームズを実在の人物とみなすといった態度に、著者も学者として共感を示している。
『緋色の習作』の第二章では、第一章で起こった二つの殺人事件の動機が説明されるのだが、ここでの話はモルモン教徒の一段が、宗教的対立と迫害を逃れて大移動をし、その長い馬車の隊列に一人の男と少女が救出されるところから始まる。もちろんここでの描写は、モルモン教の創設者ジョセフ・スミスの死後、主要な幹部であったブリガム・ヤングが一団を率いて大移動をした事実に依拠している。その後の物語にもヤングは実名で登場する。その男と少女は広大な原野で道を見失った一族の生き残りで、すでに死を覚悟するほどの極限で救われた。上記の大移動の歴史と照らせば、男と少女が救われたのは、1846年から1847年7月のいずれかの時期のことであることが判る。男と少女は恩義を受けるために、モルモン教に忠誠を誓い、ソルトレイクまでの長い道のりを共にし、コミュニティーの一員としてその地で生きることとなった。一つだけ男が忠誠を守らなかったのは、教義にある「一夫多妻制」で、男は結婚さえしなかった。やがて成長した少女は、鉱山開発でその地の周辺にいた男と結婚の約束をするに至るが、それを阻害したのがモルモン教のコミュニティーの長老であり、「一夫多妻制」という教義だったのだ。その娘をコミュニティーの有力者の息子の何番目かの妻に差し出せというのであった。これ以上の物語の顛末はここでは触れない。
それにしても、僕が買ってからしばらく読まずにおいていた『「赤」の誘惑』を読み始め、その後に『表象の芸術工学』を読んだために『緋色の習作』を読み、その直後に二つの新聞記事が掲載されていたことが何かの偶然だとしても、こうした偶然を誘発した何かがあるような気がしてならない。それこそが「赤」の氾濫のような物語における見えない作用なのかもしれない。
2012.04.25 Wednesday
わかったからといって、どうでもいいような気がするけれど、こういう本を読むのはとても楽しい
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