2015.03.19 Thursday

リトル・ウォウターは本当にこんな残念な死に方をしたんだろうか?

『キャデラック・レコード Cadillac Records

監督:ダーネル・マーティン 2008年 アメリカ 108


 公開された時に気になっていたけど見逃した映画だった。DVDが格安になっていたのでつい、購入してしまった。因みに1089円。これは面白かった。ミュージシャンの生涯を描いたいわば実録物は、その音楽や曲が生まれ出てくる背景が見えてきて面白い。レコードやCDを聞きながら想像していたような世界が再現される。すぐに思い出されるのはオリヴァー・ストーンの『Doors』だったり、『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』だったり、『アクロス・ザ・ユニバース』だったりするが、1960年代から70年代は伝説の宝庫だったから、ロックミュージシャンの足跡は劇的なんだと思う。ロックと映画という関係で言えば、元々はライブのドキュメントがあった。『ラストワルツ』や『ウッドストック』のように、記念碑的なライブイベントのドキュメントから、現在のライブDVDに繋がる。数奇な運命や生涯を描いたものでは、最近公開されたものでも『シュガー・マン 奇跡に愛された男』(2013)や『アンヴィル!〜夢を諦めない男たち〜』(2010)のような、「奇跡」とか「夢」を音楽が代弁するようなドキュメンタリーがある。またロックムービーといえばビートルズの主演映画やザ・フーの『Kids are Alright』のような、プロモーション色のある半ドキュメントのようなものや、日本でもGSのバンドが主演する同様の映画はたくさん作られた。ロックの背景となる時代そのものをピックアップして、曲やミュージシャンを配置した劇映画もある。

 

 この『Cadillac Records』は1947年レナード・チェスがレコーディング・スタジオを設立する頃から始まる。チェス・レーベルのスタートは1950年となっている。レナードは自分が経営するナイトクラブが火事にあい、その保険金をチェス・レコードの設立資金にあてた。同じ頃にマディー・ウォータズがミシシッピーの農場で民俗学的資料として「フォーク」のブルースを録音するエピソードが面白かった。その後シカゴに出てきていたマディー・ウォータズをレナードが見出し、そのマディーは路上でハープを演奏していたリトル・ウォルターを見かけ、自分のバンドに誘う。脚色もあるのだろうが、なるほど、同時代のこういう偶然がチェス・レーベルを押し上げたんだと納得する。若くて無謀で銃を持ち歩くリトル・ウォルターの振る舞いや、猛烈に人相が悪く凶暴そうなハウリング・ウルフ、女好きのお調子者として描かれるチャック・ベリーも楽しい。ビヨンセ・ノウルズが演じるエタ・ジョーンズも何しろ歌がうまくて素敵だ。楽曲を提供していたウィリー・ディクソンと、他のミュージシャンとの微妙な関係も面白い。印税をめぐるトラブルもあったことだろう。観ながら期待していたのだが、ボ・ディドリーはこの映画には出てこない。

 リトル・ウォルターは本当にこういう死に方をしたんだろうか?とも思うのだが、成功と同時に手に入れる金や名声は、すぐ後に現れてくるロックンロールや白人R&Bへの脅威として、相当なストレスでもあったのだろう。レナードがチェス・レコードを売却する頃(1969年)には、ビートルズや初期ローリング・ストーンズの全盛期だった。

 

 カラフルなキャデラックが当時の成功の象徴として描かれ、ヒット曲がでるなど成功の後は新しいキャデラックが登場し、チェス・レコードの前の路上は新車のキャデラックが増えていく。ハウリング・ウルフが初めて登場するときにボロボロのピックアップトラックに乗っていたのとは対照的だ。また、リトル・ウォルターが酒とドラッグで常軌を逸して振る舞う頃には、ドアを全部外したキャデラック乗っていたり、チャック・ベリーが車中で女遊びをするのも、ラストでレナードが死ぬのもキャデラックの車上として描かれる。

2015.03.13 Friday

聞こえてこない声の中に真実がある

 

『小さき声のカノン 選択する人々

監督:鎌仲ひとみ 撮影:岩田まきこ 製作:小泉修吉

2014年 119

http://kamanaka.com/canon/

この映画の中心は、小さな子供をもつ母親たちだ。福島県二本松市の真行寺(真宗大谷派)では、佐々木るりさんが、副住職の夫・道範さんと5人の子どもたちが暮らしている。寺では幼稚園を併設していて、震災・原発事故後もここに留まっている。幼稚園があることも大きな理由のひとつだが、ここに通う子どもたちを可能な限り外部被曝・内部被曝から守ろうとしている。ここで暮らし続ける決意は、周囲の母親たちにも伝わっていった。NPOを立ち上げ、食品の放射能測定器やホールボディーカウンターを購入して、定期的に子どもたちの被曝量を測定しているという。佐々木さんの長男は牛乳が好きで、原発事故の後には尿から基準値をはるかに超える放射線値が検出されて動揺したのだと語る。口にする食品をすべて測定し、通学路の放射線値を測り、高い値が出れば自ら母親たち(ハハレンジャーたち)に呼びかけて除染作業をしている。売り地になっているその空き地は、市に頼んでも除染してくれないのだという。加えて定期的に子どもたちの値を測り続けるストレスは、僕らの想像を超えていることだろう。佐々木さんの事例が一般的ではないことは、自宅がお寺であることと関係がある。恵まれているといえば語弊があるが、同じ大谷派の寺や檀家を通じて、汚染のない地域から野菜や食料が届く。こうした支援の野菜などを周囲の母親たちを分けあって、子どもたちの被曝を抑える活動をしている。食を通じた奉仕活動が「いつも、もらっているだけではなく、何か私にも手伝えないか」と母親たちを行動に駆り立てた。その環は、地域から少しずつ遠方にも広がっていく。

 ちょうど昨日(2015311日)の東京新聞の記事にもあったが、福島県立医大を中心として行われてきた網羅的な住民の被曝調査は、明らかに特別な値を示している。その値が震災前のものと比べて飛躍的の上昇し、甲状腺がん、あるいはその疑いのある結果がでていても、検査の担当者は「想定の範囲内」なのだという。つまり、網羅的に調べたから高い値がでたので、原発事故との因果関係を証明できない、という見解だ。因果関係をけてい付けるには、被ばく線量と甲状腺がんの発生との関係を調べる必要がある。しかし、震災後の全県民を対象とした行動調査は、回答率が低いという理由で縮小されようとしている。せっかくこれまで続けてきた網羅的な検査データ収集が縮小されれば、原発事故との因果関係は、ますますグレーになっていく。

 そしてチェルノブイリとの関係では、甲状腺がんの発生率が急上昇するのは事故から4年後というデータが出ている。これから、多発するかもしれない甲状腺がんは、とくに子どもの発生が心配される。チェルノブイリでは事故後の小児甲状腺がんの発生率は700倍だったそうだ。

 ベラルーシでは事故当時に現地の小児科医だった女性が中心となって、現在でも定期的に子どもたちの転地保養が行われている。日常的にどうしても避けられない低線量の被曝による蓄積を少しでも減らす方法として、汚染のない地域で24日間ほど生活するプログラムだ。世界各国に受け入れる地域や施設があり、日本にも受け入れ組織がある。原始的な解決方法のようであっても、汚染のない地域で暮らし、汚染のない食品を食べ続けることで、尿での測定値は著しく減少する。ベラルーシでは現在でも、子どもたちの体内被曝を調査し、そのデータを蓄積している。転地保養のようなプログラムで健康状態を回復した子どもたちも多いという。地道なデータ収集による裏付けによって国や自治体が動いた。世界各地にも支援体制が広がったことも大きい。

 ベラルーシで出来たことが福島ではできないのか? このことが映画を見ているあいだじゅう反復していた。しかし、日本では、あろうことか被曝線量の基準値を引き上げた。原発事故前の年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに。これは事故前の原発作業員の許容値だ。原発作業員は20ミリから50ミリシーベルトに引き上げられた。この数値を安全なのだと、一体誰が保証するのか? 世界の健康基準の共通認識は年間1ミリシーベルト以下だ。

 佐々木さんたちは、学校給食があるのに、子どもたちに家から食べ物を持って行かせている。国は福島県産の農作物を給食に使うと、その自治体に補助金を出している。佐々木さんたちは、基準値以下の値しか検出されなくても、ゼロか限りなくゼロに近い値の食事を子どもたちに与えたい。しかし、弁当を持参する子どもたちは減り続けているそうだ。そして、弁当を持参する子どもたちが特別視され始める。学校側からすれば「持ってこられない子供もいるのに」ということだろう。あるいは県民がみんなで地産の野菜を食べようとしているのに、水を注している、と非難されるだろう。神経質すぎる変人だとからかわれるかもしれない。そうした事例は既にある。「子どもたちを守りたい」という小さな行動が存続するためには、思わぬ障害もあるのだと思う。佐々木さんの子どもたちも、転地保養に参加している。こうした行動も、「できない子もいるのに」という非難の対象になりかねない。

 この映画には被災地から遠くに避難した親子も出てくる。福島県は避難区域以外であれば自主避難とされ、保証も補助もない。それでも非難を決断した親子はいる。やはりそこにも、「できない家もあるのに」「みんなが故郷に戻りたいと、がまんしているのに」という声が聞こえてくる。どちらの声にも真実はある。そしてどちらにも寄り添わない行政の態度は今でも、今後も続いていくのだろう。こうした細部の矛盾を知ることが出来るのは、現地に長期で出かけるか、このようなドキュメンタリー映画を観るしかない。

2015.03.12 Thursday

地域で子どもたちを育てるということ

『みんなの学校』

監督:真鍋俊永 出演:大空小学校 製作:関西テレビ

2014年 106分 BDDCP

http://minna-movie.com

 映画を観ながら、ときどき羽仁進さんの『教室の子どもたち』を思い出していた。現代版といえばあまりに陳腐な喩えだろうか? でも、子供たちの素直な日常がまっすぐに捉えられていると思った。もちろん先生たちの表情や仕草や言葉もそうだ。テレビ局が発信する映画はこれまでにも東海テレビや南海放送の優れたドキュメンタリーがあったが、この映画も地域に着目した秀作だ。

 4年生の4月に大空小学校に転校してきたセイシロウ君が、秋の運動会で走っている姿に、不覚にも涙が出てしまった。言うことを聞かないセイシロウは、木村泰子校長先生にたくさん怒られる。でも、校長先生は、「今日のことは、イチ、みんながセイシロウをいじめようと思っていた。二、みんながセイシロウと友だちになろうと思っていた。どっちや!」と問い詰める。セイシロウは二が答えだとわかっている。それでも上手に振る舞えないんだ。

 大空小学校が開校から2年目に転校してくることになったカズキは、評判の問題児だった。「カズキが行くなら大空には行かない方がいい」と噂されるほどの乱暴者は、朝寝坊を繰り返しながらも、担当の先生に起こされて一緒に学校に来る。「ここはみんなが安心できる場所や、信頼して」校長先生は彼に話しかける。同じく転校生のユズキも、すぐにキレる乱暴者だと前の学校での評判が悪かった。居場所がなかった子どもたちが、少しずつ馴染んでいく。

 この学校の校長室は「やり直しの部屋」になっている。何か問題を起こしても、校長室に来てどうすればいいかを考える。「◯◯くんに、こういって謝ってこい。ひとりでいけるか? だめだったらまた校長室に来なさい。」と木村校長は子どもたちを謝りに行かせる。何度も、また校長室に呼ばれる。そしてひとつずつやり直していく。

 セイシロウのお母さんの姿が、とても、印象的だ。前半では、セイシロウの登校時に途中まで見送りに来る遠目の姿だけが現れる。後半のインタビューで、「今までの学校では、家に帰ってくると、ランドセルの中身は綺麗なまま、鉛筆も使われないまま、クレヨンもまっさらだったんです。でも、いまは、上靴が汚れていて、一緒に洗ったり、ランドセルの中がグチャグチャだったり、クレヨンが使われていたり、それが、嬉しいんです」と語る。これまでの学校では、先生たちが気を使ってくれていたのだろう。帰り際にランドセルもきちんと整理されて帰ってきていたらしい。

 普通の子供達が普通にやって母親を困らせることが、セイシロウのお母さんには嬉しいのだという。たしかに、この映画に現れるセイシロウは、先生やクラスメイトを困らせる。学校から逃げ出そうとする。トモダチが迎えに行っても駄々をこねる。木村校長は、学校やクラスを信頼していないからだという。「学校やクラスを敵だと思っているんです」という。こんなふうに分析できる校長先生は、本当に凄い。

 運動会、修学旅行といった学校行事も、普通の学校の何倍も大変なんだろうなと思う。一般的には特別支援学校にいるだろうマアちゃんは、砂や水をやたらといじる。修学旅行でも、卒業写真の撮影でも。木村校長はその都度、根気強くマアちゃんの手を一緒に洗う。卒業式。木村校長は、言葉を話せないマアちゃんに「マアちゃんがこのクラスにいてくれたから、みんな優しくなった」と言って感謝する。

 本当に美しい映画だった。そして、子どもたちの教育現場は可能な限り少人数で、教員相互の顔がきちんと見えて、話し合える環境が必要なのだと思った。誰のせいにもしないこと。それが初等教育の基本なんだと思う。そしてそれが一番難しいことなんだ。


2015.03.09 Monday

地味すぎる日常が、人々とつながっていく面白さ

 

『おみおくりの作法 Still Life

監督:ウベルト・パゾリーニ 2013年 イギリス/イタリア 91

http://www.bitters.co.jp/omiokuri/introduction.html

タイトルが気になって見に行った映画だった。どうやら巷の評判がいいらしいことも知っていたが、いかんせん地味そうな映画で僕の好みだ。イギリスの映画にはケン・ローチをはじめ、社会問題を上手に扱う映画がある。この映画も孤独に亡くなった人の身内を探して、遺品を渡したり、その葬儀があることを知らせたりする役所の民生課の男の話だ。ジョン・メイを演じるエディ・マーサンがとてもいい。オフィスでもひとりきりの部署で、人が嫌がる類の仕事だ。孤独に死ぬ人にはワケありの人が多いのだろう。身内を訪ねても迷惑がられるような場面がある。故人が評判が悪いケースもある。映画では、その単調で退屈そうな仕事と、潔癖症を想起させるような仕草が繰り返される。リストラされるジョン・メイが、最後の仕事で執拗に故人の身内を探しだすところが、後半では描かれるのだが、いつもはそこまで執着して探すこともないだろうし、人知れず葬儀が行われて埋葬が済んでしまう人がほとんどなんだろう。ジョン・メイの執着が、知人のつながりを手繰り寄せていく。最後は彼自身がそういう名もない故人のひとりとなってしまうのだが、墓地でのラストシーンは素敵だ。そういえば、日本ではこういう仕事をする部署が自治体などにあるのだろうか?

2015.03.01 Sunday

我々はいったいどのくらい「電気代ではない電気代」を払っていたのだろうか?

 

『原発利権を追う 電力をめぐるカネと権力の構造』

朝日新聞特別報道部 朝日新聞出版 2014930日発行

 

 『原発利権を追う 電力をめぐるカネと権力の構造』(朝日新聞特別報道部 2014930日刊)は、今の日本に本格的に絶望したい人におすすめの本です。原発にかかわる幾つもの「なぜ?」は、単純にひとつの理由によるものです。本書の冒頭からそれは解き明かされます。「なぜ、再稼働は九電からなのか?」。この章で説明されている、政治家と官僚と九電(と地元の経済界)との強固な関係が原発をめぐる構造の基本です。麻生太郎と九電との関係に始まり、県知事、市長、町長への九電による選挙応援、原発建設をめぐる大手ゼネコン、準大手ゼネコン、下請けの地元建設会社から孫受けまでの序列は、「そういうことなら、公共事業にはつきものだ」と思うことでしょう。しかし、本書で明らかになったのは、福島原発事故後に元電力会社の重役や建設会社の社長、地元の同意を得るために動いた汚れ仕事をしてきた人たちの証言です。金権政治は日本のお家芸のように思っていましたが、ここまでひどいことが起こっていたのかと、本格的に絶望しました。

最終章の「関電の裏面史」では、関西電力元副社長・内藤千百里(ちもり)の証言があります。1962年から25年間政治家担当として、政・官・電の強固なスクラムを築き支え続けた裏の実力者だったと書かれています。内藤氏は、1967年に美浜原発1号機が完成した後から、歴代の総理大臣には、盆・暮れに1000万円ずつの現金を持参し、見返りを求めない寄付として渡していたそうです。年間20億円ほどのこうした寄付金をランク付けした議員たちに渡し、議員や首長たちの様々な要求にも対応していたといいます。もちろん、全部電気代として集めた金です。

こういう構造は関電に限ったことではなく、中部電力でも、もちろん東京電力でもしっかりと組織に組み込まれているそうです。もともと関電が中央の政治家たちに献金や寄付を活発化させたのは、東電と政府、経済界との近い関係を妬み、関西にも目を向けてもらえるように関西の財界と一丸となって取り組んだ成果なのだそうです。膨大な資金源になっているのは、ひとつは1千億円規模の建設を受注したいゼネコンや、準大手、地元の建設会社から「ご自由にお使い下さい」と電力会社幹部に手渡されるカネ。政治家への献金はこうした建設会社に用意させたり、電力会社には「電気代」という無限に徴収できる「あぶく銭」があるため、いくらでも用意出来たのだそうです。日比谷にある東電本社には、政治家からのパーティー券購入の依頼を受ける専門の窓口もあり、政治資金規正法の範囲内で20万円以内の振り分けて、関連会社に購入させるといういう構造があるのだそうです。そしてその金額は、経済産業大臣などの電力事業関連省庁の大臣が最も値段が高く、以下の序列は影響力によって決められているそうです。60万円とかもらっている大臣は、ほぼ相手にされていないような人たちだから、情報がリークするんでしょうね。膨大な金をもらっている人たちの情報ほど、出てこない。それは電力会社の存亡に関わるからです。

福島第一原発の関連では、原発の増設の見返りとして、地元にサッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の建設と合わせて、エルミタージュ美術館の別館を建設する計画もあったといいます。これは驚きました。ロシア側に別館建設の保証金としてゼネコンに準備させた5億円を渡し、その後この計画は頓挫したため、5億円はタダのロシアへの寄付になったそうです。

政治家への献金もゼネコンが準備したカネも、地元にばら撒いた寄付金も、結局は原発建設にかかる費用ですから、「電気代」として徴収した金です。我々はいったいどれだけの「電気代ではない電気代」を支払ってきたんでしょうか?

201531日の今、国会では安倍政権の閣僚が政治家への献金をめぐる問題で追求され続けています。重要な審議事項がたくさんあるのに、毎日のように「政治とカネ」の問題で、少しも前に進みませんね。政治とカネの問題はきちんと追求するべき問題です。昨日、民主党の議員が「安倍政権の構造的な問題ではないか?」と詰問し、安部総理は「そういう決めつけが失礼だ」と顔を歪めて反論していました。こういう問題は安倍政権にかぎらず、明らかに「構造的な問題」です。そのことが本書ではよく分かります。また、昨夜は「朝まで生テレビ」の討論で「原発の再稼働」がテーマでした。多くの人が反対しているのに、なぜそんなに再稼働したがるのか? コレもこの本でよく分かります。つまり、膨大な利権(カネ)によって動いているだけなのですね。

 

【目次】

1章 九電王国・支配の構造

なぜ、再稼動は「九電」からなのか?

県知事と近い"九電

徹底的な「地元支配」の仕組み

原発城下町、川内

 

2章 立地のまちへ

むつ市を中間貯蔵施設

3.11後、語りだした影たち

証言を求め、再取材

明らかになったむつ市長の秘密

 

3章 東電OBの告白

「もう、ウソをつきたくない」

「土砂処理事業」の不透明なカネ

東電退職後、白川氏のもとへ

 

4章 ゼネコンの内幕

幻の福島のエルミタージュ美術館

佐藤知事と東電の仲をとりもつ

クレーム処置もゼネコンが肩代わり

 

5章 東電総務部の実態

東電本店3階の政界窓口

●“総務部天下"の東電史

政官電の三角関係

 

6章 中部電の裏金システム

引き継がれてきた裏金の伝統

工面したカネの使い道

やがて、最深部"の中央政界へ

 

7章 「関電の裏面史」

戦後電力史の裏側

長い、長い告白

芦原会長との二人三脚の日々

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