2017.11.30 Thursday

誰もがドキュメンタリーを撮れるようになった今、『モアナ』は、「ドキュメンタリー映画」の自由さを予見していたのかもしれない、と思う。

『モアナ』サウンド版 (*写真は東京フィルメックスのツイッターにも掲載されているが、カラー映画ではない)

監督:ロバート・フラハティ/フランシス・H・フラハティ/モニカ・フラハティ

1926年/1980年/2014年 アメリカ 98分

 

 1926年に公開され、1980年には娘のモニカによってサウンド版が制作されたというこの映画『モアナ』は、さらに2014年に2Kデジタル版として再度公開された。今回はグループ現代によって配給され、2018年9月に岩波ホールで公開される。サウンド版と書かれていたので、僕は音楽がついているのかと勘違いしていた。そのサウンドはモニカによって録音された、当時の状況の再現音であると言っていい。それにしても、ドキュメンタリーの古典がこういう形で何度も蘇るのは楽しく嬉しい。

 フラハティの映画は『極北の怪異(ナヌーク)』(1922年)も『アラン』(1934年)は、DVD化もされていて、安価で手にはいるのだが、その他の作品は観たことがなかった。『モアナ』もドキュメンタリー関係の書籍には必ず登場する作品だ。

 

 「ファクチュアル(factual)映画」という見慣れない用語が、『ノンフィクション映像史』(リチャード・メラン・バーサム著 1971年 日本語版1984年)に出てくる。第6章「ロバート・フラハティの人道主義的な視点」の冒頭だ。「ノンフィクション」と「ファクチュアル」と「ドキュメンタリー」という用語は、この章だけでなく、何度も交差し、行き来する。定義というのは難しい。この章でも繰り返されるのは、『モアナ』がドキュメンタリーと評された最初の映画であるという記述である。

 

「ジョン・グリアスンは、フラハティの『モアナ』(1926年)に言及してドキュメンタリーという用語を初めて使ったが、我々が知っているドキュメンタリー映画、すなわち社会政治的教訓映画の創始者としてフラハティのことを考えるのは、誤解を生じるであろう。」

 

 「ドキュメンタリー映画、すなわち、」のあとの説明がすごい。「社会政治的教訓映画」だ。かなり教義の解釈だといえるのだが、そのかわりに「ファクチュアル」という言葉をフラハティーの映画に冠したようだ。つまり、彼の映画は他のドキュメンタリー映画のように政治的な目的や意思を持っているのではなく、人道主義的だ、と。だから、「ファクチュアル」という言葉は、フラハティの映画の自由さへの賛辞とも言える。

 

 「ロバート・フラハティの人道主義的な視点」の項を読むと、リチャード・メラン・バーサムがとてもユニークな評し方をしていることがわかる。まずは、冒険者であったフラハティの撮影技術の「下手さ」を幾度も指摘している。例えばこんな風に。「この映画は何よりも旅行記に近い牧歌的なものであり、その土地の特色や日常生活のいろいろな事実への想像力を欠いた注目の仕方は、『ナヌーク』であれほど力強くテーマを打ち出した、人間の強さとふるまいへの洞察力を全く欠落させている。カメラを持った人類学者として、学者のあらゆる欠点を露呈していた。」(p140)モアナが成人の儀式として入れ墨を入れるシーンが、アップの連続であることが相当に気に入らなかったらしい。しかし、続けてこう評している。「一方で彼は依然として芸術家であった。彼はあることをくどくどと論じてから、比べようのない美しさ、明快さ、簡潔さを持つ短いショットないしはエピソードで映画を生きたものにしている。」(p140)

 

 人道主義者であるという指摘の背景には、フラハティがまずは冒険者であり、その土地や人々を長期に渡って観察し、フィルムに記録し、結果的にそれらを詩的に再現することを試みている点で、映画産業の商業的な束縛から自由であったことが通底している。上記のような指摘は『ナヌーク』にも向けられ、撮影技術の未熟さを具体的に指摘しながら、それでも「私たちはお互いに、その生き様に共感を示し合う限り、ナヌークとフラハティの無邪気で、純粋で、偽りのない生き方にも共感しなければならない。彼がわたしたちの人生に関わるように、私たちは作品を通じて彼の人生に関わっていくが、それによって私たちはもっと心豊かになり、その経験を忘れはしないだろう。」(p138)という評価は、現在のドキュメンタリー映画を評する際の最大の賛辞であるように聞こえる。描かれたものをじっと見つめ、映し出された者と時間を共有し、その仕草に共感し、自らの体験とも共鳴する。そういう時間は何よりも、ドキュメンタリー映画の魅力であり、情報を超えた「映画」に固有の「体験」であると言える。

 

 「撮影は下手だが、この上なく映画として美しい」と簡潔に言いきればいい。

 誰もが固有のドキュメンタリー映画を撮影することができ、それをもしかすると、特別な映画体験に構成しうる可能がある現在においては、フラハティが示した未熟さが、現在性を帯びて蘇ってくるようだ。

2017.11.21 Tuesday

リュミエールの『塀(壁)の取り壊し』は、どのようにして逆転再生して見せたのだろうか?

 

 

10月31日に東京都写真美術館ホールで公開された『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』を観て、この漠然とした疑問が再燃してしまった。

 既に映画史の専門家の間では解決済みの問題かもしれないが、自分で調べてみるとやっぱり面白かった。

 

 『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』(2016年 90分 監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション:ティエリー・フレモー 製作:リュミエール研究所)は、とてもためになる映画だった。講義資料として何度も観てきた幾つかの映画が、これまで観たことがなかった初期映画と一緒に鮮やかな画面でそこに現れた。この映画では、4Kデジタルによって復元された150本うち108本を観ることができた。(カタログには、リュミエール社によって1895年から1905年に制作された映画は1422本と記されている)。

 学生の頃は、リュミエール以降の何本かの映画は学校のライブラリーにあったフィルムで見ることができたものの、多くは映画史の資料文献でスチルカットを観ることしかできなかった。

映画誕生100年を迎えた1995年には、フランス国営テレビが毎日1本のリュミエール映画を放映し、365本を収めたDVDセットが発売されそうだ。また、アンドレ・S・ラバルトの『リュミエール』(1995年 フランス 52分)、ハルン・ファロッキの『労働者は工場を去っていく』(1995年 ドイツ 36分)など、初期映画についての研究・記録映画も公開され、チャールズ・マッサーの『Before the Nickel Odeon』(1982年 アメリカ 60分)もその後にDVDがリリースされた。

 

 リュミエールの初期映画はThe Movies BeginのVol.2 The European Pioneersというタイトルの巻でVHSビデオとしても発売され、その後にDVD化された。さらにエジソンやバイオグラフ社、ゴーモン社といった映画史の教科書で僅か数枚のカットでみていた映画が、DVD数巻のセットでリリースされている。

 

 大学や専門学校で「映像概論」や「映画論」を担当するようになってからは、映画前史から初期映画を3〜4回の配分で説明してきた。その時はもっぱらこのようなDVDを活用していた。何しろ、すぐにそれを見せることができるのでとても重宝していた。

リュミエールについては、1895年以降の数年に公開された映画と、その後の展開として、日本にやってきたカメラマン、コンスタン・ジレルやガブリエル・ヴェールの話をし、『映像の世紀』(第11回の最終回)や『夢のシネマ 東京の夢』(演出:吉田喜重 TOKYO MXTV)を、参考資料として観ていた。

 

 5〜6年ほど前に、たまたま同じ曜日に講義に来られていた八木先生お願いして、八木先生が中心となって復元した「シネマトグラフ」と「キネトスコープ」をゼミの学生と一緒に見せてもらったことがある。自分の授業で初期映画の話をしているタイミングだった。それらの復元されたレプリカが映画学科にあることは知っていたが、正直に告白すれば、その時まではそれほど興味を持っていなかった。これもたまたま、八木先生が午前中の授業で「シネマトグラフ」を学生に見せていたという。「今から見るか?」と気軽に応じてくれた。映画学科の1階にあるスタジオの中に設置された「シネマトグラフ」を触らせてもらい、サンプルとして復元された当時のフィルム(「工場の出口」)は、一齣に一組2穴のパーフォレーションが付けられていたのを覚えている。映画学科の技術員の棒さんは、学生時代からお世話になっている人だ。棒さんの説明で映写もさせてもらいクランクを回したのだが、その時は逆回転させてみようなどとは思わず、学生と一緒に興奮していた。

 その後、八木先生とは、何度か休み時間に話をしていて、『塀(壁)の取り壊し』のことも訊いてみた。すぐに構造を確認すればよかったのだが、短い休み時間だったので、それをしなかったことが、その後のモヤモヤを引きずることになる。

 授業のたびに観ていた『塀(壁)の取り壊し』は、そのナレーションを聴きながら、いつもモヤモヤとした疑問は消えず、数年前からは「日本大学芸術学部映画学科の八木先生によれば、シネマトグラフを映写後にそのまま巻き戻すのは構造的に無理があったのではないか、という話もあります。」という曖昧な説明を加えていた。

 先日、4年生のゼミ生が遅れてくるという連絡があって、その時間に棒さんのいる機材室に行き、質問をしてみた。「シネマトグラフは、簡単に逆回転させることが出来たのですか?」「当時のランプは、簡単に点けたり消したり出来たのでしょうか?」

「う〜ん、ちょっと見てみるか?」と、飲もうとしたコーヒーカップを置いて機材室から「シネマトグラフ」を持ってきてくれた。ありがとうごいました。

 そもそも、この疑問がでてきたのは、The Movies Begin Vol.2 The European Pioneersに収められているDemolition of a Wall  1895(『塀の取り壊し』)に次のようなナレーションが付いていたからだ。「リミエールのカメラマンがこのフィルムを見せている時に、プロジェクターが不調で停止して、フィルムを巻き戻した。」

先日観た映画『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』では次のようなナレーションが付けられていた。

「この作品はー上映会での偶然から別の意味で有名になった フィルムを巻き戻す際はランプを消すのが原則 

その時の映写技師は灯けたまま巻き戻したのだ 投影された映像に観客たちはあ然とした

ホコリが収まるとー壁が破壊されるどころか再建されたのである

当時の観客の驚きようは容易に想像できる 翌日上映会に押しかけた工場の工員たちが叫んだ

“社長は魔法使いだ”と 」

そして、『世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895−1897』 ジョルジュ・サドゥール著では、p98写真のキャプションとp111 上段で次のような説明がされている。

「『塀の取り壊し』。右のチョッキにワイシャツ姿がオーギュスト・リュミエール。このフィルムは1896年1月から、逆回転で映写され、最初のトリック映画となった。」

「〜崩壊した塀の落下で舞い上がる砂埃は、またフィルムを逆回転して砂埃の只中で突然建てられる壁面の一部を見せるように気を配らなかったならば、観客の注意を充分に惹きつけることはなかったに違いない。〜」

 

 やはり太字にした箇所が気になった。まずは「偶然に」という説明と「映写技師はランプを灯けたまま巻き戻した」という説明だ。この説明によれば、上映が終わるとランプを消して巻き戻すのが普通だったということになる。しかもそれを観客が観るためには、フィルムを一旦外すのではなく、パーフォレーションをクローピンが掻き落とすことができる状態で、プレッシャープレートも外さないで巻き戻したことになる。それは本当に出来たのだろうか?

 

「シネマトグラフ」映写時のセッティングは図のようになっていて、映写したフィルムは下方に垂れ流される。

  (カラー写真は映画学科の地下スタジオ)

左上部の小さな箱がレンズを映写ように取り替えたシネマトグラフで、その下の扉がついている部分にフィルムが貯まる。フィルムは二連のハンガーに掛けられていた。一度に撮影できたのは17〜18mなので1巻は約50フィートになる。図のハンガーは50フィートほどのフィルムが2巻一度に掛けられるようになっている。後年、改良されて大きなリールが掛かるようになるとしても、この復元されたこのハンガーでは、大きなリールは掛からない。従って、1本ずつか、繋げたとしても2本分くらいのの幅しかない。

 

「ランプは簡単に点けたり消したり出来たのですか?」と尋ねてみたが、それは難しいことではなかったそうだ。そうなると構造上それは出来たかということになるが、大きな問題がひとつある。図のように映写するためにはクランを映写時のポジションに付け替えなければならない。その軸に斜めの切れ込みがある。この軸にクランクを付けて逆に回そうとすると、クランクが外れるようになっている。無理に回そうとすれば逆に回せるのだが、素直にまわすと間違いなく外側に逃げていく。この切れ目は、最初期のシネマトグラフにもあったのだろうか? あるいは逆回転をしないように改良した時につけられたのだろうか? 残念ながら八木先生が復元したときの設計図が、最初期のものか、その後のモデルかはわからない。

 

そしてもう一つの問題は、仮にクランクを逆に回すことが出来たとしても、フィルムをカメラに装着したまま巻き戻すという行為は効率が悪かったのではないか? という疑問が残ることだ。効率だけではなく、2本のクローピンをパーフォレーションに差し込んで巻き上げると、フィルムやパーフォレーションに負荷がかかって損傷しやすくなるという点だ。構造上は、クランクを逆回転させれば、映写時と同じようにクローピンがパーフォレーションに入って、上に持ち上げることは出来たようだ。しかし映写時は下方に垂れ流しなのでそれほどでもないが、垂れ流されたフィルムは絡まっているかもしれないし、上方に巻き取りながら映写するのはリスクが大きい。しかも、巻き上げられたところで、上部にあるの単なるハンガーなので、いちいちそれを手で巻いていかなければならなかったはずだ。そんな手間の掛かることをしたのだろうか?

 フィルムは後年、映写時の1巻の長さも長くなりリールが使われるようになる。映写が終わるとリールを映写機から外して、リワインダーで巻き戻す。リワインダーは一番シンプルなものが、1対のハンドル付きの軸で、テーブルなどに固定して巻き戻す。電動モーターを使うものや、数巻を同時に巻き戻すことができる大型のリアインダーもある。映写機を使って巻き戻す場合は、フィルムを映写時の位置から外し、クローピンやプレッシャープレートを通らないように、巻取り側のリールに繋いでモーターで逆回転させて巻き取る。逆回転させるよりも早いし、フィルムを傷つけないようにするためだ。

そうなるとリワインダーのような2本の軸や巻取り用のリールを作るほうが技術的には簡単だったのではないか?

  

そしてもう一つの疑問は「〜このフィルムは1896年1月から、逆回転で映写され、最初のトリック映画となった。」という説明だ。リミエールの映画が最初に公開されたのは1895年12月28日である。そのひと月後からは「逆回転で映写された」ということは、映写のたびに逆回転でも見せていたということだろう。そうなると最初期のシネマトグラフに、クランクをはめる軸の斜めの切れ込みがあったらとても不自由だったのではないか? 無かったとすれば、毎回フィルムを傷つけるかもしれない心配をしながら、逆転で映写したのだろうか? もしも、意図的に映写後のフィルムをTOPとENDを逆にしてTOP側から巻いて映写したらどうなるか? もちろん映写はできるが、これだと天地が逆さまになってしまう。

やはり謎は解けない。

 もうひとつ、『LUMIERE! リュミエール 光の軌跡』のプログラムでは『壁の取り壊し』1897と記されている。1897年に撮影された映画を1896年1月に映写することは不可能だ。別バージョンも作られたかもしれないが、今、見ることができる『壁の取り壊し』はすべてこの同じバージョンのはずだ。『世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895−1897』には「『塀の取り壊し』は、グランカフェの最初のプログラムには入っていなかった可能性がある」(p97注釈)と記されている。

 この映画はいつ撮影されたのだろう? そしてどうやって逆回転で映写していたのだろう?

 答えは出ているのかもしれないが、こうして自分で考えるのは、とても楽しかった。僕はまだ、その答えを知らない。

 

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